(^_-)-☆幸か不幸か [矛盾]

IMG_9659.JPGIMG_9653.JPGインドネシアでイスラムについて書いたり話をしたりすることは大変勇気がいることです。どうしても疑問が付きまとうので、それについて書かざるを得ないからです。日本語だから、まだ、書けますが、インドネシアに住んでいては、インドネシア語で同じ文章を書く勇気はない。
インドネシアの若者に技術を伝えるということは、イスラム教徒に技術を伝えると同義語です。覚えたいという意欲がある人で、ある程度の基礎的学力、雑知識が平均以上だと思う人が対象です。ある程度、やるなと、認めた人たちです。そういう人は遺伝的に何かの能力が平均以上の人達だと思っている。その人たちが、学校で、工作や数学や理科などの勉強をほかの人と比べて多くの時間を割いたとは思えないし、家でも、長時間勉強したとも思えない。宗教的に束縛される時間が多いし、中断する時間も多い。
そういう人に仕事へ取る組む姿勢とか技術を教えるには障害が多い。彼らは、その点で大きなハンデキャップを負っている。お祈りを一日5回しなければならない。何故、五回なのか、一回の所要時間はどれほどなのか、分からないが、とにかく6回ではなく七回でもなく、三回でもなく五回なのです。その時、今やっていることを何分間か中断します。重要な試作をしている時、技術を覚えるのにそれが肝心と云う時に、その人は、どこかへ行ってしまいます。だめならだめのまま、仕事を放り投げて脱出してしまいます。それがけでも大きな損失なのに、その時間の何分か前から、お祈りにいつ行くかを考え出しているので、既に、仕事や覚えることに集中していない。昼間の勤務なら、休憩時間を覗いても30分ほどは、損失だし、これが、一年に何時間になるのか、二十人を合計すれば、当然、その集団として、その部門として、時間的に大きな損をしている。それを承知で教えるのだから進歩が遅いことを承知しなければならない。国家として、大きな損失をしているとは思わないのでしょうか。何故、神様は一回でも良いよとか、お祈りを省略してもいい状態を示して、例えば、将来、社会のため、家族のためになるだろうから、今やっていることは重要だと自分で思えば、お祈りを省略していいと、云っていないのでしょうか。何でもかんでも、5回お祈りをしなさいと言っているなら、その理由を知りたいが、どうでしょうか。
とにかく、しなければ駄目、いては駄目という、だめ、駄目が多いらしい。そして、それぞれの長さや量などの基準がはっきりしないのも、変だと思う。だから、明らかに宗教を利用して逃げているな、と思うこともある。全員そうだと云わないが、祈ったって解決するわけがないと思うことをお祈りののがれてしまう人は多い。祈っている場合じゃないだろうと私は思う。
祈りの内容が、また、納得できない。神は、何故、そんな内容の祈りをしなさいと言ったのか、分からない。
その他にもなぜ?そうしなければならない、と云ったことが、納得できないことだらけである。とにかく、束縛が多すぎる。そんなに、民衆を束縛しなければ安心できなかったのでしょうか。とにかく、四六時中、私のことを思い、私の方を向いていなければあなたはどうなると言っているのでしょうか。
とにかく、仕事を教えるのに、技術を向上してもらうのに、プラスになっていない。マイナスが大きい。日本人のほとんどがお祈りをしないで仕事や研究や勉強をしているのです。一億人×50年×180時間(一日の差を0.5時間として)=9000億時間、国力の差は明らかです。

最期に付け加えますが、幸か不幸かは、全く次元の違う話だし、個人の話でしょう。

 
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