(^_-)-☆生き方 [人生]

 1429 私は経営者ではなく技術者だと思っている。金の計算もできるし、従業員に楽しく仕事をしてもらえる会社の雰囲気を作ることもできるし、経営も普通の人よりできると思うし、利益が出る会社にすることもできる、が、技術者としてなら、もっとはるかに、かなり、並以上にできると思うし、経営をしていても面白くないと思うが、技術的仕事をしているときには面白いと思う、楽しいと思う。
小学校の低学年のころから、義務教育が終わるまで、ずっと、学級委員長や学級委員をやらされていた。ないかと、仕切ったり、まとめたりする仕事をしなければ習い状態にされていた。「静かにしてください」とほとんど毎日のように言っていたような気がする。休みの日でも、子供会の会長やリーダーをやらされていたので、町内の子供のまとめ役、祭りのときにも林間学校などの行事の時にも、まとめ役、修学旅行や遠足の時に小旗を持たされて、集合場所に一番早く行って、みんな待っていた。点呼を取るなどは当たり前にやっていた。
それらが、自分に向いて入りとは思わなかった、全然楽しくなし、やりがいがあるなどと一度も思ったことがない。いやでいやでしかたがなかったが、やらされていた。それは、卒業して何十年たっても、日本にいなくても、同級会を仕切ることもしなければならない立場だった。他にやってくれる人がいないから、仕方なくやらざるを得なかった。
 だから、こうこりごり、だった。経営もうまくいっていた。従業員を全員、30人以上いたが、毎年、海外旅行に連れて行った。旅費はすべて会社持ち、プラス土産代も支給した。儲かっていた、新聞にも高額納税ということで毎年、紹介されていたし、日本の悪しき習慣、手形を切る、ということは、一切しなかった。成功はしていた、しかし、全然、楽しくなかった。いつの間にか、技術的な仕事から離れてしまったからだ。儲かるので金の心配はいらないが、以前開発した仕事を継続してやるばかりで、その、生産や納期の管理、人材の心配などが主な仕事になってしまっていた。それが、子供のころの私の姿と重なってきて、脱出したくなったのです。
 スパイラルチューブやコイリングチューブ、エッジングやグロメット、エンドレス自在ブッシュをつくりあげたころの自己満足感、快感は、忘れることができなかった、そこで、簡単にいえば、“包丁一本さらしにまいて”ではないが、押出成型技術一本だけひっさげて、日本から飛び出たのです。
 この期間の節目に機能お会いした北川会長が関わっていたのでした。しかし、北川会長とは生き方は違う。そのことを昨日も話をした。

http://nanbuindonesia.web.fc2.com/page232.html
全然、関係ないが、思いつきで、パンガンダランのヤマアラシの親子の様子です。
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スポンジボブがお気に入り、私のラップトップをお気に入りの上の子。
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静岡のちょっと高いところならどこからでも眺められる富士さんです。
 

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