(^_-)-☆この人も [人]

 2485 子供が小学校卒業時期に合わせて、長泉の田舎から、家族で静岡に引っ越そうと考え、先ず、敷地が50坪ほどの丸子の中古住宅を手に入れた。家の前は100坪ほどだったが田んぼが、まだ残っていた。1982年、私も40歳前、静岡に引っ越した。子供は近くの中学校、妻は、先ず、どこだったか、静岡市の北の方の麻機(あさばた)小学校だったと思う。一時期、ちょっとここを離れたが、直ぐ戻って、現在に至っている。

お互いに、それぞれで忙しかったが、別に不満がなかった。転居も多かったが、それはそれで、発展的だったと思っていた。夏の家族3人の旅は恒例だった。海外にも多く出かけた。娘が小学校に入ったころから、国内旅行、山陰地方、北海道や沖縄、星の砂の与論島、そして、“坂の上の雲“の松山地方など、4年の時に、初めて海外へ、香港、広州、桂林、次の年は、シンガポールだったか、その次は、スイス2年連続、山歩き、その次が北欧三国とデンマーク、それから、モスクワ、ポーランド、東ドイツ、この年の10月に壁が崩壊した。直前のブランデンブルク門やポイントチャーリーを東西から見た。家族3人で自由行動、毎年の夏が楽しみだった。二人にとっても、良い思い出になったと思う。こういうことが、娘がその後、ヨーロッパ滞在のツアーコンダクターになった要因の一つだったと思う。ブロンズの髪の孫がいる遠因にもなっている。

バブルの真っただ中、仕事は求めなくても入ってきた。値下げなど言ってくる客先は一軒もない。儲かってしょうがない時期でした。しかし、私は、リクルートという雑誌に、将来の社長募集というコピーで広告を出した。1983年には、大卒工学部を出た人を3人入社させ、条件は、この3人の内、誰かを10年後に社長にする。と宣言した。その後も仕事は増える一方、貸し工場から自前の工場に移った。それが、今の場所である。それでも、パートの女性約20人を含めて、全員で30名の規模だった。毎年、社員海外旅行を敢行した。スキーや食事会を全額補助で、希望者で実施した。大崩海岸の松風閣で忘年会も恒例だった。

家の方はというと、妻も中堅の教師、子供は、高校、大学(東京に下宿)と進学、波風なしの安定期、中古住宅を新築に立て替えた。土地も目の前にあった田んぼを購入し、150坪くらいになった。土地建物の名義は妻と半々にした。妻もそれなりの収入があったので、何の問題もなかった。それが、今の家である。既に築25年になるが、未だに、そう、古くは見えない。ここが、“終の棲家”になるだろう。100坪の庭の3分の1は妻の趣味の家庭菜園にしている。趣味だが、上手ではないと思う。出来あがった野菜は、食べさせられるが、姿形は今イチだし、味もいまイチ、近所の人も配られても、困ってしまうのではないかと思う。偶に学校の子供が収穫を手伝いに来て、持って帰って行った。今でも、続けている。さつま芋、ジャガイモは、保存してあるので、いつ帰っても、それを食べさせられる。庭の次郎柿は、私が楽しみ、熟柿が大好き。石和から送ってくる山梨のコロ柿が好きだ。

娘は、長泉町の田舎から、静岡市に移動し、東京の青山へ、そして、ヨーロッパへと家から遠くなっていた、そして、今は、孫と静岡の家にいることが多くなった。
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毎年恒例のプラスチック、ゴムの国際見本市の広告、18~21NOVジャカルタ クマヨランの見本市会場です。最初に二回ほど出かけたが、ずっと、いっていない。押出は、日本も同じだが、出展が極端に少ないから、行く意味がないし、こちらが教えてやりたいくらいで、私が得るものは何もない。
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ジャカルタ方面のヘイズ、太陽が赤くぼやけている。
 

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