(^_-)-☆この人の [人]

 2486 癌で胃の摘出手術を受けた後、仲人をいくつか二人で務め、社長を辞め、弐年半ほど準備期間があったが、1996年、52才半ばで、この家から、そして、日本から出た。インドネシアへきてしまった。娘は海外勤務、妻は、静岡市内の学校に勤めている時でした。妻を一人残して、単身赴任、断続的に日本にいたこともあるが、今になって、足掛け19年、実質は17年くらいだと思う。

暮れ正月の2週間ほどは、毎年欠かさず、日本にいた。インドネシアで正月を迎えたことは、一度もない。新年は必ず、身内の集まりにいるようにした。結婚前から、クリスマスイブの仕事帰りにケーキ屋に寄って、買うのは、モンブランに決まっていた。今でも欠かさない。当時は50円だったが、今では250円もする。昔も今も高いと思いながら買う。これも、欠かしたことは無い。そして、スイスからフランスに入り、シャモニー、エギーユ・デュ・ミディから本物のモンブランを眺めに連れて行ったのは結婚して12年後だったと思う。
正月は、身内が集まった時に、インドネシアであまり食べられないので、私の気持ちを込めて、寿司の大盤振る舞いをする。

妻は7年前に中田小を最後に退職し、二年間ほど、天下り的にどこかの図書館の職員をしていたが、そちらも辞めて、完全な年金生活に入っている。しかし、歩いて5分もかからない地元の長田西小でも教鞭を取っていたことがあって、地元ではかなり知られた存在になっているし、今では、孫が、時々、その小学校に通っているし、また、本人、何かと世話をするのが嫌いではないし、町内や学区の催しには引っ張られるし、役員もいくつかやっているようだし、その上、染め物とか生け花とか、家庭菜園とか、趣味のようなものも熱心にやっている。体の具合も、万全というわけではないが、寝込むようなことはないらしい。私も土曜、日曜教室などの準備を手伝わされることがある。

娘がドイツで結婚してからは、日本から、インドネシアから、ドイツの家に何回か行っている。向こうで、妻とも合流する。そして、ドイツ各地やオーストリア、スイスは、婿殿や孫と一緒の旅のコースになっていた。昔、訪れたことがある場所が多かったが、孫が一緒なら、また、別格だった。三世代で、フィルストまでハイキングなんて、思ってもみなかった。サンモリッツからイタリアのティラノ散策も、フランクフルトでソーセージをほおばったことも、全て、記憶に仕舞いこんである。ほとんど、夢の中にいるようだった。
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太田化工のカレンダーを毎年、貰ってくるが、それに妻の予定がびっしり書き込んである。私はゴルフの日を書き込むだけ。私が偶に帰った時でも、家にいないことが多く、私が、留守番役になる。それでも、最近は、孫の世話も加わって、非常に忙しい様子で、私に手伝いのために、そろそろ、帰って来てほしいようなことをほのめかすようになった。私も、そろそろかな、と思って、来年の二月からは、日本主体の生活にすると決めている。その事を話してある。ゴルフの予約のための帰国日程を、先日、会長に送ったついでに、二月からの予定も伝えた。

パニック障害に掛かって、日本での一カ月間、非常に困惑した日々が続いた。どうなってしまうのだろうかと。その時、老後は二人揃って暮らす期間が長い方がいいと思った。出来ると思う。

気の赴くまま、結構、自由に生きさせてもらったこれまで、私のような、人生を過ごす人は少ないと思う。自分の性格や能力もさることながら、自由にさせてくれたこの人に、大感謝。
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妻は出かけて行っていない、冬の日だまりの縁側で、ぼやっと、庭を眺めている、将来の自分を想像する。


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