(^_-)-☆恩人 [人]

 2833 久しぶりに赤尾先生を検索してみた。山梨大学にもどられていることは知っていた。顔写真も眺めた。いつ頃のでしょうか。もう、86歳くらいになっているでしょう。私が師事していたころは、本尾教室の助教授で30歳前半でした。私の恩人です。現在あるのは、先生からの影響が大きい、勉強や研究ではなく、お世話になったということ自体が、影響です。「太田君は、他人が目に見える結果や状態では、評価されにくいが、持っている実力は、評価する人より、ある」と、言われた。実は、私も自身そう思っていたので、妙な自信になった。
「太田君は、変わっているから、サラリーマンには向いていないな、社長になった方が良いな」と、言われたこともあった。先生に紹介していただいた会社を辞める時に、その言葉が浮かんだし、会社を興したのも、その言葉通りだった。但し、インドネシアに来て、同じ会社の日本人とはうまくやれなかった、というより、嫌われた。邪魔者になった。目の上のたん瘤になった。そうだよ、彼らに対する私からの評価は最悪だった。

卒業単位を落とすところだったが、先生に助けてもらったし、テストの結果は思わしくない、論文の発表もうまくない、それでも、テストされた科目について、結果が良い人より分かっている、発表は上手ではないが、内容は、豊富で貴重だ。と、先生は評価してくれた。偕楽園の涙は、決して忘れない。卒業後、卒論を富山で、品質管理学会で発表の機会も作っていただいた。昇降法という破壊試験の分析方法でした。

卒業一年ほど前から、オリンピック景気に反動で、当時としてはどん底の不景気、大企業は軒並み採用ゼロ、中小企業もほとんどなく、求人情報が殆どはいらなかった。私は就職するしかないので、先生に紹介していただいた、東プラ精工に入ることができた。その会社では、国立大の工学部からの受け入れは初めてだった。評価する上司が皆、私より能力が低いと思った。これも、自分で会社を興し、今、インドネシアでプラスチックの押出成形を教えていることに繋がっている。先生にお会いしていなければ、この会社に就職していなければ、現状の私は、存在していなかった。

先生にとっては、始めてだったと思う、私たちの結婚の仲人もお願いしてしまった。最後にお会いしたのは、卒業して何年かのちの同級会だった、もう、40年以上、お会いしていない、何とか、今年の末までには、出かけて行って、お会いしたいと思う。私にとっての恩人と言えるのは、先生だけだ。

実際に一緒の場所にいたのは、一年足らずである。何かを教えていただいたのは、週に数時間しかなかった。卒論もテーマと先輩が残した卒論だけ与えられた、それの未完成部分を見つけて、自分なりに、方法を考え、実施して、検証をすることで、昇降法の有効性を証明することで、応用化学とは、別の事だった。卒論について、指導を受けた記憶はない。

多くの方や会社や学校が先生のお世話になっているはずだし、海外の人達の付き合いも、私が想像できないほど多く、長く、深いと思う。感謝をしている人も多いと思う。しかし、私のような繋がり人は他にいないかもしれない。QFD?の日本の先駆者だ。私には縁のない世界だ。ノーベル賞経済学賞?に匹敵するのでは?密かに、思っている。上高地の旅も楽しかった。
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帰宅途中、ウビ バカール チレンブの文字が見える。チレンブ(バンドゥンの南東の山地帯の地名、美味しい芋の産地)焼き芋、大変おいしい、焼き芋、1kg、2万Rp(160円くらい)です。


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