(^_-)-☆押出成形との出会いC [変!]

 3624 1969年三交替勤務を卒業し、日勤になったと同時に係長補佐、71年(28歳)には係長になっていた。そのころは押出機を使う現場すべて、丸棒、板、チューブ、プロファイルとガラス繊維と炭素繊維強化ペレットの製造の責任者で部下が36人いた。実質は押出製造課長のようなもので、責任は非常に大きいと感じていた。このころ以後、現在でも、私がいる環境では、技術的にも価格的にも能力を示す意味でも、私ができるといえばできたし、それに取り組んで、その環境にも客先にも迷惑をかけたことはないし、これからも無いはずだ。私が難しい、無理といったことを、自分にやらせてほしいといって、名乗りを上げ挑戦したものも無かった。本当はそういう人間が登場するのを期待しているのだが。それほど皆さんが二の足を踏んでしまうもの、できるかできないか自分でも判断しにくいもの、それらは、ほとんどできるといってしまって、結局何とかしてしまった。

汎用樹脂はあったが、1968年ごろ、今、エンジアリングプラスチックと言われている樹脂が次々と日本に登場した。PÅ6とPA66は、アミランやザイテルで入社時にチューブや丸棒は作っていたが、PA12、PA11はこのころ登場した。PA12は東レから、PA11リルサンはフランスから、フランス人が売り込みに来た。可塑剤を入れて硬さを調整した何種類かがあった。PCは三菱江戸川化学、POMはデルリン、ジュラコンなどなど、その他PU,PMMA,PET,PBTもこのころでした。特に難しかった樹脂はPOM,HDPE、私にしかできなかった。多分、今でも、この樹脂で溶融押出でプリファイルができる人はほとんどいないでしょう。私は50年前にやっていました。
原料メーカーで、新しい樹脂が出来ると、その樹脂を売り込むために、製品の特性データとサンプルが必要になる。こんな製品ができますよとね。そのため、それらの樹脂を送ってきて、チューブや丸棒を作ってほしいとやってくる。日本で最初の製品を作ることになった。射出用の原料(溶融粘度MIが大きい)なので、簡単にはできない、出来るように、金型を考えなければなら中っと物が多かった。その樹脂純粋ではできないものをエポクシなど、熱硬化性の樹脂を混ぜて、ごまかしたこともあった。その後、溶融粘度を上げるための一方法として、そういう樹脂を売り出している会社もあるし、PCとPAを混ぜて真珠光沢の製品を作ったりもした。これは、アロイという分野で当り前に売っている。重合しないが、分離もしないで、物性を改善できる混ぜ方があることもこのころのテストで確認した。

日本平の頂上に、新しい施設ができたということを妻がどこからか聞いてきて、いって見ることにした。“夢テラス“という、展望台だった。日本平辺りの歴史や逸話の紹介スペースもあり、観光客にとっては、見どころ、聞きどころがあり、それなりに、満足できる施設になっていると思う、が、しかし、私にとっては、小学校のころ、草薙駅から草薙神社を通って歩いて登った日本平の頂上の方が良かった。何もない、ちょっとした広場があっただけ。袖師の海水浴場、三保半島、薩埵峠(さった峠).の向こうに富士山や愛鷹山を見ながらおにぎりとバナナ半分を食べたときの方が良かった、あのころのままの方が良かったと思う。
名の知れた設計者に頼んで、何億もかけて作った施設、私なら、昔の自然のままにしておきたかった。
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夢テラスの屋根
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テラスからの景観、富士山を見たことが無い人にとっては大感激だと思う。天気に恵まれた。
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由井正雪が傘をパラシュートにして飛び降りたと言われる崖がこの先端だ。子供の時、本当かなと、のぞき込んだ。ここに、土産物売り小屋が、後にしばらくあったはずだ。こんなところを見る人がいるはずがなかった。
  日本で初

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