(^_-)-☆押出成形との出会いDTsunami [人]

 3627 この期間での印象的な人との出会い。勿論、多くの人に出会って、その人たちから、大なり小なり、参考なり、反面教師なり、その後の私の考え方や行動に影響を与えられたが、このサラリーマン時代に、そして、その後にも、継続して、私に大きな影響を与えてくれた方について触れる。
先ず、塩崎さん 7歳上、会社に入る前は、自衛隊習志野の空挺部隊に属していた。私が入社したときには、押出部門の係長補佐、そして、労働組合の初代組合長をしていた。製造部門では、東レなど親会社から出向で来ていた人ではなく、現地採用の中では最年長だった。技術的もすでにある設備を使って一番、早く製品を作ることができた。条件を掴むための勘が優れていた。ボルトの締め方とか溶融樹脂の掴み方とか、仕事ぶりを見て大いに真似をした。そうしているうちに、塩崎さんは、私を後継者にしようと思うようになったと思う。入社半年後の組合役員改正の時に、教宣部長という訳の分からない執行部に入れられてしまった。無茶苦茶な仕事の始まりでした。これは、太田化工から抜けるまで30年続く始まりでした。

私を後継者としたつもりで、自分は、富士プラスチック精工として、会社を興した。
http://island.geocities.jp/enpla_indonesia/newpage0067.html

もう一方、北川工業の創業社長、北川弘二さん、こちらは、http://otaenplaext.net/newpage305.htmlここで、紹介をしている。私が独立してからも、目を掛けていただき、挙句にインドネシアのKITAGAWAを立ち上げるときに、私が東南アジアへ技術を伝えに行きたいといっていることを知って、誘ってくれた。
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これは、インドネシアへ行ってからの出会いの話。1996年の12月パサラヤブロックMで店員をしていて、私に対応したユニーさん、ユニフェスタス ナショナル(UN)の日本文学科で勉強しているといい、日本語で話しかけてきたことをきっかけに、静岡の国際ことば学院への留学の保証人になった。20年前の話、太田化工でのアルバイトで知り合った従業員と結婚して、興津に住んでいる。久しぶりに、静岡の駅ビルで会うことにした。小学2年と4年の子供と一緒、私がお爺ちゃんのようなもの。何を食べたいか聞くと、オムレツが良いといって、パルシェ6階のレストランに連れていかれた。結婚してからインドネシアに一度も帰っていないという。しかし、普通に生活している様子何よりだと思う。
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