(^_-)-☆今は昔、徒然なる・・ [趣味]

なぜかは知らないが子供の日(Hari anak)です。学校は学年変わりの休みだと思うが、今日は何か催しがあるのでしょう。道沿いの学校の付近は賑やかで渋滞の原因になっていた。テレビも子供の日特別番組をやっていた。

09:30西海岸のウミさんのワルン(ここはテント張りのミニレストランです)から出発、16:00頃チカランの家に戻った。この四日間で6時間以上の運転を4回した。昔と比べれば、ずいぶん楽になった。片道平均13時間掛っていた頃には、三連休で一日めて三日目は終日運転、二日目だけが現地で活動できた。例えば、午前中、朝早くヌサカンバンガンへ行って、昼ごろ東海岸へ戻って、そのまま、ジャングルの中へ入って18:00頃西海岸へ出てきた。そういうスケジュールだった。これはこれで、きつい行程だったが結構楽しんだ。往復の道は今と比べ物にならない。急上昇、急降下、急カーブ、上った先がどうなっているか最初は分からなくてかなり緊張した。慣れてくると、その先は真っ直ぐか、右か左のカーブしているか分かるようになりかなり余裕ができた。やっとのろのろ上っているトラックやバスを次々と追い越さなければ、後ろの車からクラクションで追い越せと催促されるので、前が見えないカーブでも一か八か、エイ、とばかり追い越したことは数え切れない。対向車が急に目の前に現れたことも数え切れない。しかし、同情者はどう思ったか知らないが、私としては、割合、余裕だった。数回、往復した後は、追い越しを掛けた車は、私の車の直前に対向車が来た時は殆ど止まって私の車が左へ入れるようにしてくれるし、対向車はブレーキを掛けて私が追い越すタイミングにスピードを落としてくれる。そういう、事が分かってからは、全く、安心して追い越しを掛ける。現在は、そのころに比べれば時間は半分以下、道は広くなっているし、曲がりくねりも少なくなっている。だから、緊張は全くしない。半分眠っている状態でも、どんどん追い越しをする。現在は、バンドゥンからタシクマラヤ県に入って暫く行ったところのウビ売りの店が道の両側に二三百メートル並んでいるその先から急下降になる。ちょっと平らになってまた、急下降する場所が一番の難所、帰りはそこが二段に急上昇になる。そこを過ぎると、タシクの町へ入る手前で、もう一度急下降急上昇がある。その他は全く、意識をしていない。回りの景色を見ながら、自然に走っている。棚田などの風景が魅力的に感じた時には車を道脇に止めて写真を撮る。先ほど追い越した車が取り過ぎて行く。その車たちを、その後、また追い越す。
昔、チカンペックからパジャジャランまで、最低四時間かかった。渋滞にはまったときには6時間以上掛った、そても、先ほどのタシク付近の山道より遥かにきつい道の連続だった。チカンペックからバンドゥンを通り過ぎるまで高速で繋がって、チカランからタシクマラヤのSELAMAT DATANGと書かれたゲートまで二時間掛らないくらいだ。IMG_1132.JPGIMG_1136.JPG
今朝出発する前に現地の若者たちがワルンに集まっていた。その時、たまたま、太田さん、何回、来ている?という話になって、1997年から通い始め、40回目くらいまでは数えた記憶があるが、その後は数えていない。おそらく、60回以上は来ているよ。ということにした。皆さん、納得でした。彼らの中の何人かは小学生の頃、恐がって、頭が痛いから、お腹が痛いから行かないと言っていたのを、ヌサカンバンガンへ無理やり連れて行った事がある、と話をする。ジャングルの中へも連れて行ったことがある、始めてラフレシアを見た、と、話をしてくれる。

米の収穫、タフスメダン
 
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(^_-)-☆当て外れラフレシア [趣味]

こうして毎日何かを書いているが、“浜の真砂は尽きるとも、世に書く種は尽きまじ”
とまあ、本当に尽きないものだと感心する。しかし、書けないことも沢山あるので、そういうものも書けば、今の倍の量は書ける。しかし、書けないことは書けない。
 今朝、また、チャガールアラムへ入ってラフレシアを探した。今日は、探した。一昨日は探す必要が無かったが、今日はそういうわけにはいかなかった。一昨日見た花の内、咲きかけていた一つだけが咲いていた。それだけである。他は全部、黒くなっていた。臭い臭いがする。探しまくった。そして見つけたのが二つ。これらは、一昨日、見つけることができなかったが、実はその場所は臭っていた。ちょっと探してあきらめた所でした。教のように探していれば一昨日にもっと咲いたばかりのラフレシアに会えたのでした。今日会った時には腐る寸前までいってしまっていた。やはり、臭う場所は徹底的に探すべきだと反省した。
 一昨日、蕾だった花で二日後には開くだろうと予想した花はことごとく予想が外れてまだ蕾のままだった。がっかりである。もう、五日ほど掛りそうなのが五つあった。とにかく、それらの開花をぜひ見たいものだと思う。
http://nanbuindonesia.web.fc2.com/page238.html
 IMG_1121.JPGIMG_1121-.JPGきのこの一種。珍しい出方をしていたので写真を撮った。専門家はこういう茸に興味を持つのではないでしょうか。こんなに綺麗にくっついているものは珍しいが、形や色がユニークな茸は一杯葉えている。苔も色々ある。暑い南国でもジャングルは、湿気があって日光が届かず、涼しい場所も一杯ある。苔が生える条件は満たしている。多分、苔の種類も、日本とは違うと思う。その道の専門家の方は興味深いに違いないと思う。ラフレシアも茸の一種?でしょうか。

 動物はそう沢山の種類がいるとは思えないが、植物の種類は豊富だと思う。ラフレシアだけでなく、その他の植物でユニークなものが数多くあるに違いない。研究者の方々は、一度、訪れて見たらいいと思う。素人の私でも、興味をそそられるものが多いのですから。   
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(^_-)-☆ラフレシア [趣味]

 08:00からウミさんのワルンを出発、それが、なんと日本人の若者と一緒、2日にジョクジャカルタへ行った日本人がいたと聞いていたが、まさか、その本人と今朝、会うとは思っていなかった。イワン君が連れてきたのでびっくりである。特に予定が無いので、一緒に連れて行ってくれというので、初めてのことだし、せっかくだから、一緒にチャガールアラムへ入ることにした。彼は、初めてで、まだ、ラフレシアの本物に会ったことが無い。ブンクルへ行ったらしいが、その時には会えなかったそうだ。今回、2日に全く差開く気配が無かったし、昨日、捜しまわってもらった結果も、無かったということだった。だから、私は全く期待していなかった。そのことを彼にも云っておいた。会えることは運が良いことだと、言っておいた。
 それでも、昨日と2日には、入っていなかったところまで入って探しまくった。なかなか見つからない。蕾は沢山あるし、咲いて何日か過ぎて真っ黒になってしまったものも沢山あったが、肝心な、今、咲いているというのになかなか会えない。結局、滝の上も過ぎて、もうないだろうと思っていたところで、独特の臭いがしてきた。必ずあるとガイドたちは確信したようだ、しかし、この場所も2日に私とガイドが臭いを感じて探した場所だった。あきらめずに、急斜面の上の方まで登っていてくまなく探しまくった。ガイドの一人が、あったと叫んだ。かなりの斜面に枯れ草、落ち葉が積もっているので、なかなかそこまで登れない。それでも、遠くから見えるようになった。今回も私の恋人とやっと会えることが出来た。同行の彼はかなり感激していたようだった。とにかく初めて幻の花に会えたのだから。私は何回も会っているが、それでもまた会えればひとしおである。良かったと思う。
 彼は花に鼻を押し付けても臭いを感じないと言っていた。その点、私は、インドネシア人ガイドが感じた時に私も感じていた。近づけば近づくほど臭いが強くなっていった。このにおいは本当に独特です。私にとっては決して良いにおいとは思わないが、このにおいに会えるとうれしくなる、ラフレシアを直ぐ見ることが出来ると期待できるからです。正しいかどうか分からないが、ドリアンの臭いも決して良いにおいとは言えないが、その臭いを嗅げば美味しいドリアンを食べることが出来るので、このにおいに会いたいと思う。

 チュルッグ、パナンジュン(滝)の滝つぼまで降りた。水量が一番多い時期で、しぶきが寒かった。ラフレシアに会った後なので、そこの景色にも十分満足した。
 帰り道、何箇所かで、道からそれて探してみたし、臭いも感じていたが、全て、つぼみでした。私の予測では、今ある蕾の多くは7月始めから順番に開き始め、それぞれ一週間ほど咲いていて真っ黒に枯れてしまう。8月中旬までの一か月半ほどは、何箇所かで、咲いているラフレシアに必ず会えるでしょう。もし、パンガンダランへ行ってラフレシアを見たいなら、その期間中、80以上の確率で、三つ四つの見ごろの花に会えるでしょう。私もその時期に訪れたいが、日本で仕事なので無理な話になってしまっている。

 東海岸のサンライズにも四日目で会うことが出来た。今日の西海岸の朝の人出はおそらく3万人くらいだろうと思う。遠浅の広幅の海岸が人人で埋め尽くされていた。
 夕方5時半ごろ、同じ場所は殆ど人いなくなっていた。三日間サンセットを見ることが出来なかった。今日も太陽を見ることはできなかったが、夕焼けは5分ほど見ることが出来た。落ち着いた、ほっとするように温かさがある夕焼けだったと思う。最終日にやっと、パンガンダランらしい夕焼けに会うことも出来て感激した。
 
新築のウミさんの家を見に行ってきた。8年前にウミさんのワルンに置くために持っていった椅子、私が行ったときにこの椅子でくつろごうと思ってでした。2006年の津波の時に海岸から本人の家にこの椅子は移されていた。もし、移していなかったら津波でどこへ行ってしまっていたでしょう。大変懐かしかった。いつになるか分からないが、今度訪問するときには、この椅子を海岸へ戻して、くつろごうと思う。
今回の写真集 http://nanbuindonesia.web.fc2.com/newpage123.html
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(^_-)-☆寄り道の方が [趣味]

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    この会社の社員のまま日本へ帰ってインドネシアへ戻るため、この会社の在籍を半月ほど伸ばして、1月15日ごろまでとしてもらった。エポはそのころ、そうすれば一月末までに次に場所のビザをとれば、シンガポールへ出るだけで、インドネシアに居続けることが出来るという段取りです。
  出勤日でした。バンドンのインフレーション成形工場から招待があって、どんなものかと見学に行ってみた。バンドンの南のバイパス的高速道路に沿って工業団地があり、その中のローカル企業です。押出機の口径が40~65mmφで15ラインあった。創業は15年前ほどだというから、インドネシアでは草分け的なプラスチック袋のメーカーです。最初は日本から装置を輸入したが今では全て中国製を輸入している。経営者も中国系インドネシア人です。スカルノハッタ空港付近に沢山のプラスチック袋のメーカーがあるが、気にしていないようで、あそこは皆リサイクル原料を使って、低級品を作っているから、問題にしていないと言っていた。かなり、食に安全な原料を使っていることを強調していて、自信があるようだった。私に見せたかった理由は、そういう工場と、ポリシーを知ってほしかったからと受け取った。この会社を手伝うという思いは一番大きい。

 帰る途中レンバンからタンクバンプラフへ寄ってみた。9年ぶりでした。今回は御はち回りをする時間は無かったので、下へ歩いて、カワ ドマスという硫黄ガスが噴出している場所まで行ってみた。ここの売りは温泉卵と足湯です。火口回りの駐車場へ駐車し、1.2km下ります。25円とちょっと高いが卵を買うとザルに入れて、噴出しているお湯の中へ浸けてくれて15分後位に塩を添えて持ってきてくれる。黒くはならないが、インドネシアの卵は薄茶色でその色には変化が無い。大変おいしかった。写真にあるように丸くお湯をためる場所が作られていて、回りは平たい石で囲ってありそれに坐ることになる。42~3℃と調度いい。膝くらいまでの深さなので歩いて中心の方へ行ってみたら、ぼこぼこお湯を噴き出している場所を踏んでしまい、あわてて逃げた。照れ笑いをしていた。

 インドネシア人は足湯に浸からないようだ。眺めているだけである。スバンはチムベダックの産地、ちょうどシーズンで道端でパイナップルと共に売っていた。一個250円位です。ドリアンと同じくらい大好き。
     

(^_-)-☆新しい場所 [趣味]

IMG_5840.JPGIMG_5839.JPG  結局、インドネシアの押出成形の大部分は私が指導したことになっているし、私が考えた装置が使われている。これからも当分の間、その状況は変わらないだろうし、私が、インドネシアから居なくなっても、私の技術以外で、新しい製品を手掛ける会社や人は出てこないでしょう。全て私の技術がベースになって、新しい製品も生まれてくるでしょう。そういうインドネシア人を育ててきたし、二三年は、出来る人を育てたいと思っている。この世界は、製品を作れなければ、5Sがどうの、ホウレンソウがどうの、歩留りがどうの、品質がどうの、と言ったって、何も始まらない。インドネシア人しかできない製品がこれから多くなってくる。日本人は、品質改善やスピードアップや作業標準の改善などの会話に全く入ることはできない。そして、インドネシア人を評価することが出来ない。
そういう日本人が上で大きな顔をしていては、インドネシア人は溜まったものではない。そういう会社は、淘汰される方向が正しいと思う。
現在、日系企業にかかわらず全ての企業が輸入している押出成形品をインドネシア内で作って提供できる日本人はインドネシア国内に他にいない。知りえる情報では、まだまだ、色々な製品がる。それらを、一つ一つ、メイドインインドネシア製品に切り替えて行くことが出来るのは私しかいない。そこで、私はインドネシアにいなければならない。
日本でも、私に来てほしいという会社は何社かあるが、日本で、日系企業を手伝うつもりは、全くない。そして、インドネシアでも日系企業の手伝いをすることは止める。

 また、自分で始めようかとも考えたが、年も年だし、人を集めるのも難しいし、今どこかにある会社で私の手伝いに期待していて、誘いを掛けてくれる積極姿勢のローカル会社に私も、期待することにした。その会社の現状を見せて貰ったわけだが、まずまずの仕事をしていて、これなら、いけるだろうと判断した。
新しい装置を入れるのだがそのスペースを確認した。製造作業者の腕というか、能力もチェックした。今の生産設備や技術はどこから誰が持ってきたのかも確認した。全て、自分たちで作り上げた装置を使っていた。一見華奢だが、良く考えられていて、これ等の装置なら、日系の企業でも興味を示すのではないかと思った。ただし、今の装置では、全く、発展性が無い、場所も狭い、新しい技術を使う仕事の話があったとしても、対応できる状態になっていない。
新しい、装置を直ぐに入れなければならない。その方向で、経営者に提案をする。今年中に準備する。

  サンモリッツの旧市街

   
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(^_-)-☆早い復帰を願う [趣味]

IMG_6603.JPGIMG_6599.JPG久しぶりの飲めない人の食事会でした。リッポチカランのルコタムリンの日本食レストランに12人近く集まった。何年か前の、飲めない人という趣旨が、今日は飲む人の方がはるかに多かった。何が趣旨なのか分からなくなっているようだ。
この中で、私が一番の年長者でした。インドネシア滞在も私が一番長いようでした。私のインドネシア内での動きについて話をしたところ、ちょっと興味を持っていただいたようで、影響を受ける人が出てくるかもしれない。

ちょっと、気になる知らせが入って、気分が沈みがちだ。インドネシアで生活、活躍の大先輩が、体の不具合が見つかり、日本へ帰って精密検査を受けた結果、直ちに手術をしなければならないという状態で、手術をすることになった。知らせは、そこまで、一か月前にタバコをぴったり止めたので、これは、不具合が有るなと直感したが、とにかく、早い回復を願いばかりです。早く、インドネシアへ戻ってきてください。今まで、私たちのゴルフの会のまとめ役をやっていただいていたので、私が、代わってまとめ役を引き継いでいますが、先輩ほどには気が効かないので、皆さんに、不安を与えないように、手法を真似してやっていきたいと思っている。早く戻ってまた、まとめ役をやってほしいと思います。

どうも、理解しにくいが、IUIというのは、仕事が始まって、ある程度(それがどれくらいなのかは確認していない)の金額の生産や取引が始まってから出されるものらしい。それまではスムンタラIUI(暫くの間のIUI)拠に、商売や製造をしていということらしい。工業生産許可書だから、単純には、これが先で、仕事が出来ると思うのだが、仕事がある程度の量になってからでないと許可を受けることが出来ないとは、理解しにくい。

イジップ工業団地内の冠水状態、水捌けが非常に悪いので、ちょっと低い道は水があふれてしまう。
    
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(^_-)-☆外部的に動き出す [趣味]

IMG_62391.JPGIMG_62381.JPG 
今日は06:00頃テーオフ予定だったので、目覚ましを04:00にセットしてその通り目が覚めた。大雨が降っていた。その後も降り続きスタート時間になっても小降りにならず待機して07:00ころやっとスタートした。その後はみるみる天気が回復し、南国の空と雲の雰囲気になっていった。
 昼食の時に話の成り行きで、私の今後の予定について重要なことを社長に打ち明けた。この考えは、変わることはないと前にも書いている。私が近い将来、どこかの組織の中で埋もれてしまうことはあり得ない。人の思い込みのままにはならない。

 既に赴任をしてきている二人は来週早いうちにシンガポールのインドネシア大使館でワーキングビザを発行してもらう段取りになっている。それまでは、仕事を出来ないが、それ以降は仕事を出来るようになる。10月から、押出のお客さんを回って、紹介をしようと思っている。現在まだ取引のない会社へは、私が連れていったり紹介したりしないで、自分で訪問してもらうことにする。私は外部的には、出来るだけ新しい仕事に係わらない様にし、私の影響を少なくしたいと思う。内部的にはあらゆる手伝いをするのは当然である。私の影を早く消して新しい人がやりやすいようにしてやることが私の責任です。

 会社が本人のために準備が遅れている物については私が個人的に私の所有物を使ってもらったり、私が余分に持っている物をその人に与えてしまったりして、仕事のスタートダッシュを、“あれがない、これがまだ、”という理由で遅れてしまわないようにすることも私の義務だと思う。これ等の事は、現在の客先に対する最低の責任だと思っている。

  その後、間を置かずに営業活動が始められると思う。それも、私でなく、新しい人がするはずである。
 目にした魅力的対象、色の鮮やかでインドネシアらしい。
      

(^_-)-☆一人が好き [趣味]

IMG_4207.JPGIMG_4205.JPG 他に誰もいない工場の端っこ、一号機で、機械装置とにらめっこ。充実した一日でした。
一人が良い。他人に気を使わないで済むから、気が楽である。
40代半ば、正月五日仕事始めの日、従業員は定時に皆帰って、私一人で、試作をしていて、18:00過ぎでした。原料を交換するために押出機の上に乗って、ホッパーから原料を掻きだし、空にした後、押出機の上から飛び降りた。その時、片足がなにかに引っ掛かり1.3mくらいの高さから大股開きで落ちる羽目になった。先に落ちた左足がボキっと音がした。一瞬、折れた、と、思った。
 見回しても誰もいないことは分っていたが、誰かいてくれたらと思って、見回した。やはり誰もいなかった。どうしよう。いつかどこかに書いたと思うが、タクシーを呼んで当局医の処へ行って、骨折(細い方のヒ骨)の手当てをして、タクシーでまた会社へ帰って、車の運転をして家に帰った、翌日流石に休んだが、翌々日は出勤し、いつものように仕事をした。石膏は一週間後に取ってもらって、ブリキの添え板だけにしてもらった。いうのも、腫れがすいて石膏と足が擦れ折れた時より、擦れがいたかった。二週間後の自分で添え板を取ってしまった。医者へ行ったのは、骨折当日と石膏から添え板に替えた時の二回きりでした。
 
そんなことで、私自身は一人で仕事をする方が、他人と一緒より、効率が上がるし、他人に手伝ってもらうと、手伝い方が、私には、気にいらないことが多い、何か、手伝いましょうかと、気が効く人は言ってくれますが、ありがとう、いいよ、一人でできるから、と言いますが、内心は、手伝ってもらっても、手伝いにならないでしょう、かえって、邪魔だと思う。

 従業員には一人で仕事をさせることは絶対しません。必ず二人以上で残業などはさせます。現場の仕事は特に念を押します。責任の問題と言うより、なにかあったときに早期に対処しなければなりませんから。

 と言う私も、一人で住んではいない、マリアさんがいる。やはり、何かが私の身に起きた時に出来るだけ、他人に迷惑をかけたくないし、早期発見をしてもらうためである。
しかし、仕事は別です。私に一番の望みは、家族には申し訳ないが、押出機の傍で、眠るようにSurga(Nirwana)へ行けたらいいなと思う
http://www.k4.dion.ne.jp/~enplaind/
今日の昼食、MM2100の外のカキリマからブンクスで持ち帰ったソプイガ(Sop Iga牛の肩甲骨部の肉というか筋肉)食前食後ですが、骨が大部分で肉が張り付いている、肉だと思ってかぶりつくとそこも骨だった、ガキッという感じ、ソプブントゥットと味付け、味は同じ、おいしいことはおいしい。ご飯込みで、100円(1万Rp)です。安いでしょ。ご飯は食べきれないほど沢山、油紙に包まれている。ソプはホリエチ袋で持ってきたものをドンブリに入れ替えた。
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恵まれた環境 [趣味]

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二年になって、下級生が入ってきた、やはり50人くらい。私の役目は、彼らを辞めさせることだった。処が、その中の四人、小学校の時から卓球場で鍛えてきていた。私より上手い。結局、その四人以外は全員辞めてしまったが、彼らが残ったのだから、四人増えて、やはり、私がいちばん下手だった。そこで、二年の時もレギュラーになれず、中途半端な、いてもいなくてもいい、どちらかというと、下級生の四人に気を遣わせる邪魔な存在だと意識していた。いまさら、やめて、他の体育系の部に行くことも出来ない。辛抱するしかなかった。
 個人戦でも、静岡市で、優勝したり、10位以内に4~5人入っていたと思うが、私は32番目位だった。
 二年の新人戦になるころ、四番手になっていた。上三人は、卓球場でならしてきた連中で、後輩の卓球場で練習してきた連中の何人かは私が抜いていた。市の新人戦で、四番手か五番手で、交代で団体戦に出ることができ、私の力ではないが優勝メンバーの一人になっていた。三年の本大会ではやはり市で優勝し、個人ではベスト8に入った。
 県大会は全く印象に残っていない。しかし、この頃から、中学の時でも浜松や沼津の有力校へ遠征して他流試合をすることが楽しみになっていた。静岡市でトップの力を持っていたから、それができたのだと思う。うまい連中がいたので、私も釣られて腕が上がったと思う。補欠が多くてなかなか、レギュラーにはなれなかったが、後々に割合努力しなくてもレギュラーになれたのは、この時の環境と部員に恵まれていたからだったと思う。
 三年の時は静岡市で優勝し県大会でもベスト4に入ったが。やはり、私は補欠だった。
私が高校へ入って、私より上手かった後輩の連中が県大会で優勝した。そのメンバーは私が高校の二年の時に他校の選手として対戦したが、其の時は私の方が圧倒的に強くなっていて、静岡県の中部大会の団体で二番手として団体戦に個人とダブルスで出て準優勝、個人戦ではベスト8に入っていた。若い時は、やはり、環境に寄ることが多いと思った。中学の時一年からレギュラーに入っていた同級生は高校に入ってから、名前を聞かなくなってしまった。
もっとも、高校の同級生では私より上手い奴がいて彼は準優勝をした。他の中学からきた中学時代から個人戦では上位にいた人でした。顧問の先生はいないと同じだったので彼がキャプテン、私がマーネージャーとして卓球部を運営していた。
 余計なことだが、其の時に予算の多額獲得の手段を知った。年度末にはお金を使い切ること、安く買って、領収書は定価で買ったようにしてもらったり。合宿の前後に先輩を招待して卓球大会をして寄付を募ったり、繁華街や市役所県庁へ行って、遠征費の寄付をお願いしたりした。とにかく学校名でかなりそういう動きは世間に認められていたように感じていた。
 大学では一年の時からトップ。最初からレギュラー、何の努力も頑張りもしなかった。女性部員と和やかに練習をしていたし、先輩の女性部員からは良く持てた、というより、やさしく打ち返してやるので彼女達の練習相手として手頃だったと思う。
良く、指名され、可愛がられたものでした。自然に二年の後半からキャプテンになっていた。囲碁部や書道部にも入って学生時代を満喫した。合宿も男女混合でやったので、普段練習に来ない部員まで参加した。スキーやアイススケートも学生時代に部で主催し、部員をあちこちへ連れて行った。この時も、急に部員が増えた。こんなにいたの?というくらい。
 中学の時の同級の女性や高校の時の他校の女性や大学の時の同じ体育館で一緒だった女性の話など、この十年間の話はきりがない。この期間のエピソードはきりがない。

見にくい名盤、正面からしか読めない、15度以上横からでは光ってしまって、全く、何が書いてあるか分からない、というより、何も書いてなくただのステンレス板にしか見えない。
インドネシアのゴルフ場の代表的な風景。
    

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青春おいしい思い出 [趣味]

IMG_3482.JPGIMG_3481.JPG 三連休になったが、今回はどこへ行く予定もない。出勤である。 というのも、従業員が慣れれていない新しい仕事をするので、迷いや間違いが無いように監督しなければならないからでした。
13;00に終わったので、これも、久しぶりにリッポチカランのハイパーモールへ行って、切れてしまって久しい、ジャポニカ米(短粒米)富士光と苦に国寶の二種類を買った。各五キロ1500円前後、一キロ三百円ということになる。それだけでは、もったいないので、インドネシア米を5キロ買って、混ぜて使うことにする。こちらの価格は5キロで六百円、一キロ百二十円である。
http://www.k4.dion.ne.jp/~enplaind/
これが、ジャカルタの日系スーパーでコシヒカリやキララなどは五キロで三千五百円から五千円で売っている。一キロ、七百円から千円である。それでも、売れているのです。ちなみに私は日系スーパーで米を買ったことが無い。もっとも、日本でも、一番安いとい事が購入する条件です。新潟魚沼産コシヒカリなどというものは食べたことが無い。ちなみに、私が一番おいしかったお米は宇都宮の旅館で食べたものでした。種類は分からない、きらきら光っていたし、甘くておいしかった。その旅館は、関東ブロ、と言って関東甲信越の国公立大学の各種運動部の選手権でした。毎年、各県が持ち回りで主催しその大学へ行って試合をするのです。私は卓球でこれに参加していた。ちなみに中学、高校、大学と10年間卓球部に属していた。中学の時は四番か五番手でしたが、チームとしては、静岡市で新人戦、夏大会で優勝していた。高校の時は学年で二番手でしたが、一年の時は全体で四番手だったので団体戦ではチームの面倍になっていた。二年の時静岡県の中部で準優勝、三年の時は三位でした。中学の時の同級のメンバーの中では私が一番手になっていました。大学の時は、一年、入部した時方四年生より上で、一番でした。ですから、一年の時から、レギューラーで、個人戦でも、全国国公立選手権ではベストエイトに入っていた。
卒業と同時に卓球部という形ではやらなかったが、就職した東洋プラスチック精工の一年目に健康保険組合の静岡県東部の選手権があった、会社の総務から出て見ないかと言われて、個人で出て見たら、いきなり、準優勝してしまった。団体対戦も在ったが、私の会社では卓球部は無いし、出場したのは私だけだったので、団体戦には出なかった。
その何週間あとの問題を起こすことになるとはその時全く予想していなかった。
個人戦で四位までが県大会に出場する権利が与えられた。義務とは受け取っていなかった。すっぽかしても構わないと思っていた。県大会のことなどどうでもよかった。三島近くに住んでいたし、静岡まで卓球をするために行くことなど全く、頭から消えていた。当日は横浜で、間もなく結婚する妻とデートをすることになっていて、山下公園や氷川丸、中華街とお決まりのコースを満喫していた。勿論、他のことは頭になった。
 月曜日会社へ入ったら、いきなり、総務から呼び出された。何のことか全く心当たりが無い。いきなり、「太田君の困るじゃないの、すっぽかして」と言われた。良く良く聞くと、静岡県大会の団体戦は個人戦で四位までの人が団体戦のメンバーとして出場する義務が有ったのでした。一人足りない状態でやったという。散々な結果だったし、相手に失礼をしたという。
そんなことは全く知らされていないので、個人戦だけなら欠場しても問題ないと思い込んでいたのです。実際、事前に知らされていないし、大会の直前に確認の知らせや電話もなかった。
話は、とんでもない方に曲がってしまった。明日はこの続きになる。
MM2100ルコの中にあるバイキング式のレストラン、これば三百円。道端のお墓売り。