(^_-)-☆大ショック [人]

 2900 アラックバリを届けに、行ったついでに、太田化工の先、焼津方面に向かう、旧150号線、大崩海岸の様子を見に行って見た。そこまではいかなかったが、名前通り、崖崩れがあって、通り抜けできなかった。おかげで、他の車が走っていない、自由に道端駐車が出来た。もう、止めてしまったが、私が社長をしていたころ、パートタイマーで仕事を手伝ってくれていた女性にばったり会って、びっくり、あの頃はよかったね、と、しばらく、話をすることができた。
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 同じ場所で崖崩れを繰り返すので、海に迂回橋を作った30年ほど前に。
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 そして、その橋から、富士山 静岡市街地 日本平、その向こうに箱根が見える。

沼津の子会社”セピック“太田化工が沼津で始まった時に、一緒にやってくれた人に、そこを任せ、私は静岡に来てしまって、その後、太田化工から切り離し、独立させた会社だ。高齢になったが、後継者がいない、そこで、太田化工に事業譲渡をという話は聞いていたが、話がまとまったらしい。”セピック”は、クローズし、従業員、装置込みで、客先も引き受ける。既に、それらの製品は太田化工でトライし、客先からの承認も得たという。来年の4月には、完全に、引継移動が終了する。売買契約は交わされた。

赤尾洋二先生の訃報が入った。88才。大学四年の時の恩師である。卒業してから、半年後に、先日、富山へ行った時、以前、行ったことがあると書いたが、赤尾先生とご一緒だった。先生の推薦とお膳立てで、日本品質管理学会で卒論の発表をしたのでした。亡くなったのは10月24日だったとのこと、私は一寸前に先生のことを書いたなと、振り返ってみたら、10月18日(19日に投稿)に何年かぶりに、恩人というタイトルで赤尾先生との関わりを書いた。その時、来年、同級会があるのでその時にお会いしたいと思いながら書いた。会えなかったのはショックで無念。そして、10月24日(25日に投稿)には、高校時代ダブルスを組んでいた亡くなった友人のことを書いていた。どちらも、その日に書く気になったのは、何故だろうか。たまたま、思い出して書いただけなのに、何故、たまたまだったのでしょうか。
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我が家の庭、強い雨。


タグ:無念 恩人 訃報
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(^_-)-☆後継ぎ [人]

 2851 隣組コンペというのに参加した。隣組とは、EJIPのヒュンダイ工業団地の入り口と道を隔てて斜め向かい側の入り口近くにある、貸し建物の集合地区に入っている会社の集まりの事である。今では、借り工場ではなく、使用権を購入してしまった会社もあるし、そこから、発展的に出てしまった、他の工業地帯に移転した会社もあるが、過去からに繋がりがあるので、以前からに仲間として、ゴルグコンペを継続している。何故、そこに、私がはいったかというと、そのグループに中の何人かと普段、一緒にやっていて、私が、予約の役目をしているので、彼に頼まれて、コンペ用に3フライトの予約をすることになって人数の関係で、私も参加した。
オネストといっているが、隠しホールを四つとし、プレー後、アミダなどで、其の四ホールを決めて、そのホールをパー扱いにする。プレーの前に、自分は、その、分かっていないホールをパーにした時の予想スコアーを申告しておく、例えば、スコアーが100で、隠しホールをパーにした時に6改善されると予想した場合は94と申告しておく。プレー終了後、各自、隠しホールのオーバー或いはマイナス数字を届け出る。この部分が、正直にという意味で、オネストと言っているのです。申告した数字と一致すれば、その人が勝者になり、皆さんから集めたお金を全部受け取ることができる。一致した人がいなければ、プラス側で近い人が勝者になる。集めたお金とは、一致から、プラス側の人は、プラス数字掛ける1万Rp出す。5は慣れていれば5万Rpだす。マイナス数には2万Rpを掛ける。3マイナスの人は6万Rp出すことになる。但し上限を10万Rpとする。これが私たちの決め事でした。勝者が複数になった時には、分けるのは当然だ。
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コンペの打ち上げは。デルタマスの日本食レストランだった。久しぶりのデルタマス辺りの様子。

夕方、スマランから来たコミサリスのエンダンさんと、近場のホテルのレストランで打ち合わせをした。新工場についてと経理処理の問題についてが、主な話題だが、私がそう長くないということで、後継者についての注文をさせてもらった。私が推薦する若者を責任者にするように、頼んだ。初代のアブドゥールと二代目のフレンシ(彼女の義理の弟)それぞれに10%のシェアホルダーにした、そして、既にいないフレンシは10%持っているままになっている。彼の10%を推薦する若者に譲るように頼んだ。どうも、彼女はそれには、賛同しなかった。その若者を信じられないという。信じて10%渡した二人に裏切られているからでしょうか。

信じなければ、信じてもらえませんよ。お互いに言いたいことを言い、聞きたいこと、確認したいことを全部出し合って、ください。それから、決断してください。私がいつまでもいるわけではないから、決断を早くしてくださいと言って、火曜日まで、いるということなので、火曜日にリーダー格の数人と話をの場を作って、自分の意見を伝えてくださいと頼んだ。そうするでしょう。

私は、日本とインドネシアの滞在を半分ずつにする。インドネシアにいなくても、さまざまな手伝いはできるから。但し、ワーキングビザに関係で、ダイレクターのポジションをそのままにしておく。

最後に一緒に、新工場の進捗状況を確認しに行ってきた。彼女は、現場を確認するのは、初めてで、この状態では、もう、一か月、今の工場を借り続けなければならないと、私が報告したことを、納得した。
  

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(^_-)-☆ダブルスコンビ [人]

 2839 亡くなったダブルスのコンビとの記憶。静高の卓球部の時に、二年から三年にかけて、彼が主将、私がマネージャーをしていた。彼は、高松中学の時から知られた存在だったが、団体としては、私がいた末広には、勝てなかった。確か、彼はシングルでベスト8に入っていたと思う、私は16止まりだった。彼の方が強かった。高校に入って、直ぐに、私も彼も団体戦のレギュラーになった。というのは、その時、私たちより強かったのは、三年に一人、二年に一人しかいなかった。ダブルスはその二人が組んで、私たちはシングルだけに出た。当時、中学が市で優勝を争ったのが、安倍川と末広だった。三年生は、安倍中の出身、二年生が、私の先輩、末中からだった。
その人、現在、精華学園?高校、大学、良く知らないが、理事長かなんかやっているみたいだし、県の育英会の会長もやっているみたいだ。静岡県の事務長みたいな仕事、何年もやっていて、人事異動の新聞に顔写真が、乗っていたのを見たことがある。話はそれるが、その人、K,Mさんで、三番町小学校からずっと、私の近くの上にいた。ケイさんと呼んでいた。先輩が卒業の時に私が送辞を読んだ。その前の年、先輩が送辞を読んでいた、私の姉が、答辞を読んでいた。目立った人だが、結構、面白かった。いい加減な人だった。中学の時の逸話、先輩、三年の時、学校の風紀委員長をやらされていた。ある朝、風紀委員とその指導の先生が、遅刻生徒を見張っていた。先輩はその役目をしなければならない立場だったが、先輩自身が遅刻、そこで、門からではなく、離れた塀を乗り越えて学内に入った。それを、他の先生に見つかって、こっぴどく叱られたのを知っている。その次の年は、私が風紀委員長になっていた。

高校の時には、部のキャプテンだったが、部の仕事は、全く、マネージャー任せで、知らん顔、そのマネージャー、後に、中町にあった県の中小企業振興会の会長になったと思う。私は歩きで、片道一時間くらいかけて通学(三年になって自転車通学)していたが、練習が終わって帰宅する時、先輩の自転車の後ろに乗せてもらって途中まで一緒のことが良くあった。遠回りをして、焼き芋屋に寄ったり、黄金饅頭を食べたり、女学校(中学の時の知り合いも多かった)巡りをした。大学になっても、静大と梨大になったが、国公立の大会や静高の合宿でよく会う機会があった。国公立、北大での開催の時には、先輩、ベスト8まで行っていた。私がやっと32位以内だった。

で、同級のT.Y君の事、二年になると、先輩と彼がダブルスを組んで、私はシングルだけ、そして、もう一人のシングルは、一年生の服織中学出身のF君だった。彼は、北大をでて、地元の藁科?で動物病院を経営していた。

で、また、話が戻ると、二年の時には団体、県中部で二位、個人は8位以内だった。彼は、4位以内になった。二年の後半から、彼と私がダブルスを組むようになった。彼は左利き、一年の時から、私は彼といつも練習をしていた。彼にとって、私が一番良い練習相手だったから、彼が、私を離さなかった。試合形式で限りなく繰り返した。私は不満だった。実戦で、左利きと戦うことは無いにもかかわらず、いくら、私より強いからと言って、左利きだけとしか練習できないわけだから、右利きで相手になる相手は私にいなかったし、そうするしかなかった。当時、彼は中部で、シングルで準優勝、私は、矢張りベストエイト止まりだった。私が伸びなかったのは、彼の練習台になっていたからだと思っていた。何年か後に、彼に、それを言ったことがあった。すると、彼は、左利き相手に、私がいろいろ工夫して、勝とうとしてくれたことで、自分がうまくなったと言っていた。私を頼りにしていたと言っていた。

彼は、静大の夜間を卒業し、県の財務局?に就職し、そして、要職について長く、税務関係の仕事に携わっていた。どこかの税務署長になっていたと思う。左利きの彼とダブルスを組んで、団体戦では、県大会に行っても無敗だった。個人戦はあったが、ダブルス戦がなかった。有れば、ダントツで優勝していたと思う。顧問やコーチの先生がいない部だった。個人戦の決勝の時、既に準決で負けていた私は彼のコーチ役に回っていた。いちいち、私に、アドバイスを求めてくる、負けてしまったが、第三者的に見ると、絵になりそうだと自分で思った。まわりには、大勢の女学生(私たちの同級生、知り合いもおおい)が、彼や私を応援していた。中学の時、同じクラスだった人もいた。彼女は、彼がなくなったことを、直ぐに知ったと思う。その頃には、結構周りから意識をされていたと後から思う。私が緊張したのを覚えている。

当時、県の卓球協会の役員が、壇上にいて、見回していたが、各学校の顧問をしている人も多く、顔見知りになってはいた。中学の時に強かった生徒が、他の高校に進学して、出てきている。私を含めて、それほどでもなかった私たちが、コーチの先生もいないのに、自分たちだけで、中学時に負けていた他校の選手より強くなっているのには、感心していたようで、“お前ら、矢張り、静高生だな”と、妙に感心されたことがあった。

昨年の暮れ、彼のことを知って、書いたが、そういう歳になったのかなと思う。折しも、大学の時の応用化学同級会の案内のメールが入った。何故か、12月2日だそうだ。金曜日にするということと、送られた人数が30人、どう読めばいいのでしょうか。私は、行けない。その時、日本にいないから。
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タンゲランの“こしひかり”5kgで15万Rp,安いし、美味しい、私はこれにしている。“富士光”は23万Rpだ。
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ジャバベカ ファーマーズ マーケットの駐車場から、東の空を望む。


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(^_-)-☆恩人 [人]

 2833 久しぶりに赤尾先生を検索してみた。山梨大学にもどられていることは知っていた。顔写真も眺めた。いつ頃のでしょうか。もう、86歳くらいになっているでしょう。私が師事していたころは、本尾教室の助教授で30歳前半でした。私の恩人です。現在あるのは、先生からの影響が大きい、勉強や研究ではなく、お世話になったということ自体が、影響です。「太田君は、他人が目に見える結果や状態では、評価されにくいが、持っている実力は、評価する人より、ある」と、言われた。実は、私も自身そう思っていたので、妙な自信になった。
「太田君は、変わっているから、サラリーマンには向いていないな、社長になった方が良いな」と、言われたこともあった。先生に紹介していただいた会社を辞める時に、その言葉が浮かんだし、会社を興したのも、その言葉通りだった。但し、インドネシアに来て、同じ会社の日本人とはうまくやれなかった、というより、嫌われた。邪魔者になった。目の上のたん瘤になった。そうだよ、彼らに対する私からの評価は最悪だった。

卒業単位を落とすところだったが、先生に助けてもらったし、テストの結果は思わしくない、論文の発表もうまくない、それでも、テストされた科目について、結果が良い人より分かっている、発表は上手ではないが、内容は、豊富で貴重だ。と、先生は評価してくれた。偕楽園の涙は、決して忘れない。卒業後、卒論を富山で、品質管理学会で発表の機会も作っていただいた。昇降法という破壊試験の分析方法でした。

卒業一年ほど前から、オリンピック景気に反動で、当時としてはどん底の不景気、大企業は軒並み採用ゼロ、中小企業もほとんどなく、求人情報が殆どはいらなかった。私は就職するしかないので、先生に紹介していただいた、東プラ精工に入ることができた。その会社では、国立大の工学部からの受け入れは初めてだった。評価する上司が皆、私より能力が低いと思った。これも、自分で会社を興し、今、インドネシアでプラスチックの押出成形を教えていることに繋がっている。先生にお会いしていなければ、この会社に就職していなければ、現状の私は、存在していなかった。

先生にとっては、始めてだったと思う、私たちの結婚の仲人もお願いしてしまった。最後にお会いしたのは、卒業して何年かのちの同級会だった、もう、40年以上、お会いしていない、何とか、今年の末までには、出かけて行って、お会いしたいと思う。私にとっての恩人と言えるのは、先生だけだ。

実際に一緒の場所にいたのは、一年足らずである。何かを教えていただいたのは、週に数時間しかなかった。卒論もテーマと先輩が残した卒論だけ与えられた、それの未完成部分を見つけて、自分なりに、方法を考え、実施して、検証をすることで、昇降法の有効性を証明することで、応用化学とは、別の事だった。卒論について、指導を受けた記憶はない。

多くの方や会社や学校が先生のお世話になっているはずだし、海外の人達の付き合いも、私が想像できないほど多く、長く、深いと思う。感謝をしている人も多いと思う。しかし、私のような繋がり人は他にいないかもしれない。QFD?の日本の先駆者だ。私には縁のない世界だ。ノーベル賞経済学賞?に匹敵するのでは?密かに、思っている。上高地の旅も楽しかった。
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帰宅途中、ウビ バカール チレンブの文字が見える。チレンブ(バンドゥンの南東の山地帯の地名、美味しい芋の産地)焼き芋、大変おいしい、焼き芋、1kg、2万Rp(160円くらい)です。


タグ:恩師 仲人 恩人
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(^_-)-☆突然の訪問 [人]

 2757 昨日、出来なかった墓参りを実行した。インドネシアから持ってきたアラックバリやアラックアングレック ワインを渡すために、沼津ではなく清水町の会計事務所に行ってきた。私が独立する前にアルバイトのように夜勤専門で努めていた富士プラ精工で経理をしていた7歳年下の好青年で、経理の勉強をしつつ、税理士試験を受けていた。その後、私が独立した時に、ほとんど同時に、そこを止めて、会計事務所に勤めながらの試験を受けるようになった。まだ、資格を持っていなかったが、その勉強に材料の一つとして、私の会社の税務申告をしていた。実際には資料を作って、その経理会社の資格を持っている人に提出してくれていた。
その内、全ての科目のテストを通過し、税理士として、独立をした。私の会社の経理は彼が、面倒を見てくれている。今でも、太田化工の経理は彼が見ている。先日は、窓会社のような会社のことを書いたが、子供会社のような、沼津の“セピック“の社長とは、中学を同級生だ。40年以上の付き合いだ。

彼はアルコール類が大好きということを知っていて、15年ほど前に、インドネシアから持ってきたアラックバリを彼に渡そうと、自宅を訪問したが、家の前で、ビンを落として割ってしまい、家の前の地面に沁み込ませてしまった。匂いだけしか渡せなかったことを、私は、悔やんでいた。そして、そのことを忘れることはなかった。今日、この酒をやっと、ちゃんと、届けた。彼も、しっかり、そのことを覚えていて、その時は、かなり、ガッカリ、ショックだったと言っていた。

その彼ももう65歳、後継者の問題を抱えている様子。セピックの後継者の問題と併せて、そろそろ、真剣に考えなければならないという話だった。その点、私は、さっさと、譲ってしまってうまくやったなと思っている。
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東名を使って行ったが、なぜかというと、途中、墓参りをするためだった。富士川楽座に駐車し、歩いて、外に出て、墓参りをした。ETCの出入り口の直ぐわきに、歩行者出入り口がある。歩きで10分、私たちの墓につく、お盆の墓参りとした。昨日もそうだったが、いつもは、この道、車でスーと通ってしまったが、今日は歩き、びっくり、太田石材店の工場が道の脇にあった。立ち寄ってみた。お孫さんがいて、私の対応をしてくれた。彼は、びっくりしたと思う、私も彼もお互いのことは知らない。自己紹介から説明した。10歳年上のいとこの会社だが、今は、勿論、家でくつろいでいるはずだという。よろしく、伝えてちょうだいということで、離れた。歩行者出入り口の直ぐそばだった。

清水町からの帰りは、非常に久しぶりに、千本松原の一号線を使った。富士市からバイパスに入った。日本の高速道代は高すぎる。静岡沼津千何百円、インドネシアならこの距離、300円以下だ。そこで、帰りは一般道を使った。

北海道から、全員帰ってきた。孫、一人は高熱ですぐ寝込んでしまった。もう一人も、鼻血が何回も出たと言いながら、会話をほとんどせずに寝てしまった。
中身の濃い一日でした。
  

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(^_-)-☆回顧と現在 [人]

 2746 あるものを買いに、久能海岸沿いの店へ行ってきた。これも、インドネシアへ持ってゆくものだ。その途中の海岸通り。
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帰ってきて、家の駐車場から出て玄関に向かう道で目に入る状態。四年ほど、剪定をしていないので、うっそうとしている。
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太田化工の社長を辞めてから23年ほど過ぎる。50歳で止めて、相談役になり、責任者から無責任者になり、約二年後のインドネシアへ行ってしまった。そして、相談役という役職も止めてしまった。単なるインベスターになっていた。そして、今は、資本も全部譲ってしまって、単なる創業者だったということになっている。日本にいるときは、気軽に、のぞきに行っている。途中、コンビニで、弁当を買って、食堂で皆さんと一緒に食事をしながら、世間話をする。

昨日、話をしたことは、私が社長をしていたころの取引先の社長の消息についてだった。数社、主な会社があったが、全てが当然、社長は交替している。それらの会社の社長さん、全て、創業者で、私より5歳以上15歳未満、上だった。私ほどではないが、皆さん、若いうちに自立したのでした。当時は、そういう、個人会社のようなものが多かった。名古屋に二社、東京に三社、静岡県に二社だ。そして、それら、すべて、今も取引が続いているそうだ。
当時の社長さん、既に三人亡くなっていたことは知っていたが、昨日、もう一方、亡くなっていることを知らされた。今年、5月だそうだ。そしてその人は、5歳しか違わない人だった。
残りの二社は、息子さんが社長になっているが、本人は、会長で頑張っていて、社長よりも煩く、今でも、太田化工の今の社長に対し、工場長と言っているという、うるさく、文句を言ってくると言いう。
そして、もう一社、引退し、他人に会社を任せ、悠々自適?の方がいる。その人とは、今でも、個人的にお付き合いさせていただいている。

全ての方々は、多いに、お世話になった方々でした。
20年以上も過ぎれば、そんなものでしょう。そりゃそうでしょう。太田化工も今の社長は30歳でなったが、既に53歳になっているのだから。
 

タグ:健在 回顧 他界
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(^_-)-☆七日目 [人]

 2731 ゴルフは六日目でした。平日料金で、私は27万5千Rp(約2,200円)ゲストが60万Rp,ビジターは70万Rpだそうです。本日も、元気で楽しくラウンドをした。天気晴朗、風、おだやか。日本の37とか38℃の暑さこちらにはない。

 昼食の後、やはり、出社で仕事。こちらは、一人で、じっくり、淡々としたものである。

ところで、面白い話を聞いた。日本食レストランでのこと、私の後ろの衝立の向こう側の人たちの話声が大きい。良―く聞こえる。その内の一人が熱弁をしている。インドネシアは遅れているという。何故かというと、シンガポールやクアラルンプール、バンコクでは、日本食材が自由に手に入る。日系のデパートやスーパーが進出していて、そこへ行けば、日本にいるのと同じように、日本の食材はなんでも買える。売り場面積も広い。コメから、味噌醤油、缶詰、惣菜,おしんこ、それも、それぞれ、いろいろなメーカーのいろいろな種類を売っている。
それに比べて、インドネシアには、そういう店がない、日本食材スーパーがあるが、売り場面積は、狭いし、品ぞろえが少ない、選びようがない、求めるメーカーのものがない。遅れている、生活しにくい。だ、そうだ。

他に三人は、黙って聞いている。相槌を打っている様子はない。この人の言っていること、確かに、そうかもしれない。しかし、遅れているというのは、変だし、生活しにくいというのは、全くの、見当違い。この人、どこの何様なのでしょうか。と、思う。単に食材だけのことだが、かなりの高給取りで、高級住宅に住み、高級車の後ろでふんぞり返っている人だと想像できる。料理を自分でするわけでもないと思う。
全く、といっていいほど、日本食材スーパーに行くことはないし、十分生活がしやすいと思っている私とは生き方が違う人だと思う。

そこまでで、終わり、自分たちに会話になって、その後の話は耳に入らなかった。
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今朝、8時半ごろの睡蓮、この時間になれば、十分開いている。MACANSEマチャンス、である。Manis Cantik sekaliマニス チャンティック スカリ である。毎日、ここへきて蓮花の撮るのが楽しみだ。
  

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(^_-)-☆認知症の兆し [人]

 2537 横から車が飛び出してきた。実際、体験した。青信号、普通に通過しようとしたその時、右から、乗用車が侵入してきた。私がその交差点に入ったのは、青に変わってから三台目だった。横からの車は、赤に変わってから10秒後くらいに入って来ている。明らかに、赤に気が付いていない、というか、信号を意識していないで入ってきてしまっている。私は左に避けて通過した。わたしの後ろの車はその車に当たる前に止まっていた。その車は、交差点の真ん中で一旦、停止し、また、走りだして、赤信号のまま通過していった。その人は明らかに高齢者だった。しかし、私より上か下かは見かけでは分からない。これか、今、日本での交通事故の原因として、危惧されていることは、と、思った。認知症テストのハードルを高くしたほうがいいと思う。

二回目のゴルフ、今回は、キャディーを使わないでやった。カートの操縦は、誰かが乗っているとき以外は、リモコンでやる。そして、誰が、リモコンを持つかということになる。山の中の起伏の激しいゴルフ場だが、私は、ティーグランドから、二打目の横まで乗るが、それ以外は、ほとんどカートには乗らない。だから、私がリモコンを持ちましょうかと、言ったら、一人の人が、私がやるよという。そして、その人にお任せした。ほとんど、毎回、ボールの横まで行って止め、打った後、カートに戻るのです。要するに、その人は、それをコントロールしたいのです。それじゃ、リモコンを使う必要ないじゃないの、と思うが、やはり、それをするには、自分でリモコンを持っていて、他の人に、カートを動かされないようにしたいのです。そして、どうでしょうか、私は、ほとんど、途中で乗らないし、クラブをカートに取りに戻らないように、寄せようとパターを二打目に打つクラブとともに持ってグリーンまで歩くからいいのだが、そのほかの人は、大変、行ってしまったカートを追いかけたり、来ないカートを待ったり、チョロってしまった時には、クラブを取りに行かなければならないので、なお大変、私は、みなさんを待つばかり、場合によっては、グリーンまで、さっさと行って、待っていることが多いが、目の悪い人のために、ボールの位置を確認してやる作業もする。これもまた、耳が遠い人に知らせるのに、何度も大声で叫ばなければならない。

グルーン周りにカートをその人が止めるが、これも、その人のボールの傍に止めるので、そのホールを終了した後、カートが遠いところにあったり、次のホールの方向になかったりするので、その人がホールアウトをするのを待たなければならない。また、終わっても、リモコンでカートを動かさないで、その人は、カートに戻ってしまう場合もあるし、自分がリモコンを持っていることを忘れてしまうのでしょうか、カートの方にいる人に、カートを動かすようにその人が頼むこともある。リモコンで、動かしてくださいよと頼むと、あ、そうか、と、苦笑いをしながら、動かす。

他人のバッグに放り込んでしまった、パターがない、ドライバーがない、と、騒ぎだすのは、当たり前。グリーン周りにクラブを置き忘れるのも当たり前。ボールが見えなくなり、あらぬ方向に行ってしまうのも当たり前、ただし、私を含めて、全員が元、社長、数字にはまだ強いようで、スコアーは、無意識だろうが、少なく書く癖はあるが、計算は間違いなく速い。このことで、誤魔化しはきかない。
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富士山がくっきり見えたし、駿河湾も望めた。いい天気でした。


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(^_-)-☆この人へ [人]

 2487 インドネシアで仕事をしている時には、日本へ帰るのは、年平均2、5回、合計で50日間くらいだ。そして、冬の寒い時と、夏の暑い時が多い。私の部屋は、自分であると思っていて、帰れば、その部屋に落ち着く、南の庭に面した明るい広い部屋だ。畳一畳の掘り炬燵が真ん中にあり、冬は、勿論、炬燵として使うが、その他の時期には、単なる机として使う、北側の襖の向こうが台所と食堂になっていて、その食堂は、孫たちの勉強部屋にもなっている。襖を開けておけば、それらの全てが見通せる。しかし、私が部屋にいる時には、きっちり締めて置く場合が多い。というのは、開けておくと、私の部屋の温度を私が思うように保てないからだ。夏は暑すぎるから、冷房を利かす、冬は寒すぎるから、暖房を利かす。開けておくと、その効果を保てないからだ。
だから、ご飯だよと、呼ばれて、襖を開けると、冬は寒すぎるし、夏は暑すぎる。そちらの部屋も私と同じように調整してくれればいいのだが、意見は平行線、私がこの点では孤立状態。

私が外に出かけると、私の部屋の温度を他の部屋と同じにしてしまう。空気を入れ替えると言って、襖も窓の開放してしまうからだ。帰ってきて、部屋に入ると、周りの開けてある全てを閉じて、エアコンをオンにする。冬はコタツもオンにする。冬は、水蒸気発生装置もオンにする。嫌がられる。

12月中旬から帰るが、脛に赤い斑点が出来てしまう。オロナインやメンタムを塗っても、あまり効果がない。ということで、私の部屋の中の状態は、私が望むようにしたいので、協力してほしい。
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一週間ほど前に、ジャカルタは雨季に入ったと、気象庁から、宣言があった。しかし、今週のチカランは全く雨が降らなかった。そして、今日、先ほど、15時ごろから30分ほどスコールがあった。久しぶりに雨音を聞いた。工場からの帰りが16時過ぎ、雨はとっくに止んでいたが、水たまりがあちこちに出来ていた。水捌けが悪いから、当たり前だが、間もなく、これがもっとひどくなった、渋滞も酷くなる。
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カキリマで買ったブンクスのソトサピとご飯、25000Rpです。これが、例えば、ジャバベカゴルフのレスタランなら、税も足されて、80000Rpになる。そして、にはカキリマの味の方があっていて、美味しい。
 

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(^_-)-☆この人の [人]

 2486 癌で胃の摘出手術を受けた後、仲人をいくつか二人で務め、社長を辞め、弐年半ほど準備期間があったが、1996年、52才半ばで、この家から、そして、日本から出た。インドネシアへきてしまった。娘は海外勤務、妻は、静岡市内の学校に勤めている時でした。妻を一人残して、単身赴任、断続的に日本にいたこともあるが、今になって、足掛け19年、実質は17年くらいだと思う。

暮れ正月の2週間ほどは、毎年欠かさず、日本にいた。インドネシアで正月を迎えたことは、一度もない。新年は必ず、身内の集まりにいるようにした。結婚前から、クリスマスイブの仕事帰りにケーキ屋に寄って、買うのは、モンブランに決まっていた。今でも欠かさない。当時は50円だったが、今では250円もする。昔も今も高いと思いながら買う。これも、欠かしたことは無い。そして、スイスからフランスに入り、シャモニー、エギーユ・デュ・ミディから本物のモンブランを眺めに連れて行ったのは結婚して12年後だったと思う。
正月は、身内が集まった時に、インドネシアであまり食べられないので、私の気持ちを込めて、寿司の大盤振る舞いをする。

妻は7年前に中田小を最後に退職し、二年間ほど、天下り的にどこかの図書館の職員をしていたが、そちらも辞めて、完全な年金生活に入っている。しかし、歩いて5分もかからない地元の長田西小でも教鞭を取っていたことがあって、地元ではかなり知られた存在になっているし、今では、孫が、時々、その小学校に通っているし、また、本人、何かと世話をするのが嫌いではないし、町内や学区の催しには引っ張られるし、役員もいくつかやっているようだし、その上、染め物とか生け花とか、家庭菜園とか、趣味のようなものも熱心にやっている。体の具合も、万全というわけではないが、寝込むようなことはないらしい。私も土曜、日曜教室などの準備を手伝わされることがある。

娘がドイツで結婚してからは、日本から、インドネシアから、ドイツの家に何回か行っている。向こうで、妻とも合流する。そして、ドイツ各地やオーストリア、スイスは、婿殿や孫と一緒の旅のコースになっていた。昔、訪れたことがある場所が多かったが、孫が一緒なら、また、別格だった。三世代で、フィルストまでハイキングなんて、思ってもみなかった。サンモリッツからイタリアのティラノ散策も、フランクフルトでソーセージをほおばったことも、全て、記憶に仕舞いこんである。ほとんど、夢の中にいるようだった。
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太田化工のカレンダーを毎年、貰ってくるが、それに妻の予定がびっしり書き込んである。私はゴルフの日を書き込むだけ。私が偶に帰った時でも、家にいないことが多く、私が、留守番役になる。それでも、最近は、孫の世話も加わって、非常に忙しい様子で、私に手伝いのために、そろそろ、帰って来てほしいようなことをほのめかすようになった。私も、そろそろかな、と思って、来年の二月からは、日本主体の生活にすると決めている。その事を話してある。ゴルフの予約のための帰国日程を、先日、会長に送ったついでに、二月からの予定も伝えた。

パニック障害に掛かって、日本での一カ月間、非常に困惑した日々が続いた。どうなってしまうのだろうかと。その時、老後は二人揃って暮らす期間が長い方がいいと思った。出来ると思う。

気の赴くまま、結構、自由に生きさせてもらったこれまで、私のような、人生を過ごす人は少ないと思う。自分の性格や能力もさることながら、自由にさせてくれたこの人に、大感謝。
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妻は出かけて行っていない、冬の日だまりの縁側で、ぼやっと、庭を眺めている、将来の自分を想像する。


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