(^_-)-☆連休終了 [思い出]

 4503 私は9連休だった。13日はゴルフ場、クローズだったから、8日間、ゴルフをした。連日猛暑で、今日も例外ではなかった。日が当たっている場所と日陰のコントラストがくっきりしている。
DSC00980.JPG
DSC00981.JPG
家に戻る前に、一週間分の食料品を仕入れた。
DSC00982.JPG
終って、皆さんから、元気ですね。わたしがその年と時には、毎日やっていないですよ、どころか、ゴルフもしていないでしょうね、っと、言われた。でも、とにかく、惰性で、やっていただけだった。スコアーなんか、どうでもよかった。
戦中生まれの私としては、食べるものにも事欠いた時代を通り過ぎているから、タフなんでしょうか。そんなことを言いながら、小学校の音楽に時間に歌ったブンガワンソロを歌って見せた。日本語の歌詞で、そんなことから、ふと、思い出した。その他、子供の頃、歌った歌を思い出していた。

分譲住宅地に建物がどっと増えてきた。年内には、入居が始まりそうだ。
DSC00978.JPG

Update corona 16 Mei 2021 Indonesia
https://www.youtube.com/watch?v=UmdZLq7Bbpw
DSC00987.JPG
1. 陽性症例数は3.080人増の1.739.750人
2. 回復患者数は3.790人増の1.600.857人
3. 死亡患者数は126人増の48.093人
4. 治療中は836人減の90.800人
治療中、今日も昨日より、劇的に少なくなった。新感染者、回復者共にかなり少なくなった。この数字、明らかに検査数が少ないからだと思う。死者の数はそう少なくなっていない。新規感染者数、ジャカルタ、なんと、たったの161人、検査数を一緒に公表してほしいですね。
1. Jawa Barat: 792 2. Riau: 355 3. Jawa Tengah: 346 4. Kepulauan Riau: 222
5. Jawa Timur: 164 6. DKI Jakarta: 161 7. Sumatera Barat: 141
8. DI Yogyakarta: 135  9. Kalimantan Barat: 97  10. Sumatera Utara: 80
Ini Sebaran3.080 Kasus Baru COVID-19 di RI 17 Mei 2021

https://www.youtube.com/watch?v=8s7miuEtYcQ
tragedi_pe.jpg
Fakta Perahu Terbalik di Waduk Kedung Ombo Boyolali, Polisi: Nahkoda Masih Berusia 13 Tahun
警察、ボヨラリのケドゥンオンボダムで転覆したボートの事実:船長はまだ13歳です
Perahu yang tenggelam di Waduk Kedung Ombo di Dukuh Bulu, Desa Wonoharjo, Kecamatan Kemusu, Kabupaten Boyolali, Jawa Tengah, mengangkut penumpang melebihi kapasitas. Selain itu, perahu dinakhodai anak berusia 13 tahun. Hal itu dikatakan oleh Kapolres Boyolali AKBP Morry Ermond. "Perahu tenggelam itu idealnya hanya bisa untuk 14 penumpang ditambah nakhoda, tetapi membawa 20 orang," kata Kapolres di sela operasi pencarian korban kecelakaan perahu di Desa Wonoharjo, Minggu (16/5/2021).
中部ジャワ、ボヨラリ県、クムス地区、ウォノハルジョ村、ドゥクブルのクドゥンオンボ貯水池に沈んだボートは、定員以上の乗客を運びました。 さらに、ボートは13歳の子供が率いていました。 これはボヨラリ警察署長AKBPモリーアーモンドによって言われました。 警察署長は、日曜日(2021年5月16日)にウォノハルジョ村でボート事故の犠牲者を捜索しているときに、「沈没船は理想的には14人の乗客と船長を収容できるが、20人を乗せていた」と述べた。
ilustrasi-babi-1_169.jpeg
肛門呼吸の話
Beberapa hewan mamalia punya kemampuan luar biasa, yakni bernapas dengan usus. Para ilmuwan sedang mencari tahu apakah manusia juga bisa melakukannya.
Lho buat apa?
Selama pandemi COVID-19, banyak rumah sakit kehabisan ventilator. Alat bantu pernapasan ini sangat vital, bekerja dengan mendorong udara langsung ke paru-paru untuk memasukkan oksigen dan mengeluarkan karbondioksida.
一部の哺乳類は、腸で呼吸する並外れた能力を持っています。 科学者たちは、人間もそれができるかどうかを見極めようとしています。
何のために?
COVID-19のパンデミックの間、多くの病院が人工呼吸器を使い果たしました。 この呼吸装置は不可欠であり、空気を直接肺に押し込んで酸素を導入し、二酸化炭素を除去することによって機能します。
Agar tidak kewalahan saat kehabisan ventilator, para ilmuwan mencari cara baru memompakan oksigen ke dalam tubuh. Namun teknik yang ada saat ini, extracorporeal membrane oxygenation (ECMO), berisiko memicu perdarahan dan pembekuan darah.
"Kami awalnya mengamati model mencit untuk melihat apakah kita bisa memasukkan oksigen lewat anus," kata Takanori Takebe dari Tokyo Medical and Dental University, dikutip dari Livescience.
人工呼吸器がなくなったときに圧倒されないようにするために、科学者たちは酸素を体内に送り込む新しい方法を探しています。 ただし、現在の技術である体外式膜型人工肺(ECMO)は、出血や血栓を引き起こすリスクがあります。
東京医科歯科大学の竹部隆典氏は、「最初は肛門から酸素が入るかどうかを確認するためにマウスモデルを調べた」と語った。
Dalam risetnya, para peneliti menempatkan mencit di lingkungan dengan oksigen rendah. Hasilnya, mereka hanya bertahan 11 menit. Dengan ventilasi atau bantuan napas lewat anus, 75 persen tikus bertahan hidup selama 50 menit!
Para ilmuwan lalu mencobanya lagi dengan oksigen cair yang dimasukkan jalur yang sama, kali ini pada tikus, mencit, dan babi. Hasilnya dinilai cukup menjanjikan.
彼らの研究では、研究者たちはマウスを低酸素の環境に置いた。 その結果、彼らは11分しか続かなかった。 換気または肛門呼吸の補助により、マウスの75%が50分間生存しました。
その後、科学者たちは同じ経路に液体酸素を供給して、今度はマウス、ハツカネズミ、ブタで再試行しました。 結果は非常に有望であると考えられています。
これって、イスラムはダメじゃん。

https://www.youtube.com/watch?v=syi-Rm6JdUQ

藤山一郎 スペシャル 昭和の偉大な歌手、この映像、1時間ほど、最後まで見た。殆どの歌を歌うことができた。最後の青い山脈は、当時の池部良と杉葉子の映画の主題歌だったと思う、自転車を三角乗りでこぎながら、歌ったものだった。
話はそれるが、子供用自転車等望めなかった時代、“三角乗り”って、知っていますか。大人の大きな自転車のハンドルと打席の間の三角のフレームの中に右足を通して、向こう側のペダルを踏み、当然、自転車は右に傾いたまま、運転をする乗り方だ。勿論、その動作の前に、ケンケン乗りを始める。私は、この乗り方で、新聞配達や納豆売りをしたし、母親の実家のガラス屋の手伝いで、頼まれたガラス窓の寸法を測りに、その家まで行って、店に戻り、ガラスを寸法通りに切ってもらい、また、それを,嵌めに行く、というアルバイトもした。
https://www.youtube.com/watch?v=RA9S8sTU-Tc 三角乗りの写真
0;30にこの運転の仕方が出てくる。
もう少し、背が高くなると、ケンケン乗りと言って左足にペダルを乗せ、右足で蹴って、スピードをつけ、左足はペダルに乗せたまま、右脚を大きく後ろに上げ後輪や座席をまたいで右脚を向こう側のペダルに乗せ、お尻は座り、運転を続行する。降りると時には、その逆をする。何故かというと、最初から跨いで座席に座っては足がペダルに届かないからだ。婦人乗り自転車のばあいは、右脚を座席の前から回して向こうのペダルを踏みだす。

24;30辺りで歌われるラジオ体操第一の歌。この画像で出てくる子供たち、私と同世代だ。1950年頃、小学生学年の時にラジオ体操第一が生まれ、高学年になって第二ができた。第二は、ちょっと,難しいなと思った記憶がある。
この人の歌は、私が生まれる前からのものも含めて、子供のころラジオで聞いてことごとく覚えて歌っていた。明るくて都会っぽく感じていた。音楽の教科書にも載っていた。
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

(^_-)-☆匂いと味 [思い出]

 4277 コロナに掛かっているかいないか、匂いや味を感じるか感じないかで、判断の目安になるといわれている。私は、この年になっても、他人より、匂いに関しては敏感だと思っている。プラスチックの種類は火を付ければ、その匂いで分かる。
 インドネシアでは、道を走っているとあちらこちらから匂いを感じる。ゴルフをしていても、決まって臭い匂いが漂ってくる場所がある。毎日、常時、コロナのテストをしているようなものだ。牛の糞の匂い、塩ビを燃やしている匂いが私の生活範囲では二大バウです。
 ちなみにラフレシアの匂いは、私に取っては良い香り、ジャングルでそのに香りが漂ってくると俄然、張り切って、香りの主を探す行動が始まる。
2fdfdadbb0.jpg
Sebelumnya, batuk kering, demam, dan kelelahan yang tidak dapat dijelaskan, disebut sebagai gejala khas virus corona atau COVID-19. Namun, kehilangan indra penciuman dan rasa, juga telah diidentifikasi sebagai salah satu gejalanya.
以前は、乾いた咳、発熱、原因不明の疲労がコロナウイルスまたはCOVID-19の典型的な症状として説明されていました。 しかし、臭いや味の喪失も症状の1つとして特定されています。
Kehilangan indra pengecap yang signifikan, meski tidak mengalami pilek atau batuk, sekarang dianggap sebagai salah satu ciri khas virus SARS-CoV-2.
風邪や咳がなくても、味が大幅に失われることは、SARS-CoV-2ウイルスの特徴と見なされています。
Mengingat kehilangan indra penciuman sebelumnya telah dikaitkan dengan serangan pilek dan batuk yang parah, sangat penting untuk memahami bagaimana rasa kehilangan penciuman sebenarnya setelah terinfeksi virus corona.
匂いの喪失は、以前はひどい風邪や咳の発作に関連していたことを考えると、コロナウイルスに感染した後の匂いの喪失が実際にどのように感じられるかを理解することは非常に重要です。

update corona 2 Oktober 2020
https://www.youtube.com/watch?v=2Q5dAQwMOAA
DSC02403.JPG
1. Jumlah kasus positif bertambah 4.317menjadi 295.499 1. 陽性症例数は4.317件増の295.499人
2. Jumlah pasien sembuh bertambah 2.853 menjadi 221.340 2. 回復患者数は2.853人増の221.340人
3. Jumlah pasien meninggal dunia bertambah 116 menjadi 10.972 3. 死亡患者数は116人増の10.972人
4. Jumlah pasien dalam perawatan bertambah 1.348 menjadi 63.187 4. 治療中は1.348人増で、63.187人
治療中の陽性者の数が記録的増え方でしたね。

https://www.youtube.com/watch?v=TXNrBU50Y2Q
Pemkab Deli Serdang Tutup Sementara Lokasi Wisata Hairos
デリセルダンリージェンシー政府は、ヘアロスの観光地を一時的に閉鎖します
1601626691454_copy_800x450.jpg
Ahli Sebut Wedang Jahe Ampuh Jaga Imunitas Tubuh
専門家は、ウェダンジンジャーは、体の免疫を維持するのに効果的があるという。
32e6c591d2638d.jpg
Siapa tidak kenal dengan minuman tradisional asal Jawa Barat bernama Wedang Jahe? Selain bisa diminum di kala hangat dan membantu tubuh menjadi lebih semangat, ternyata Wedang Jahe juga ampuh menjaga imunitas tubuh.
ウェダン・ジャヘと呼ばれる西ジャワの伝統的な飲み物に精通していない人はいない。暖かい時に飲むことができ、体がより活発になるのを助けることができることに加えて、ウェダンジンジャーはまた、体の免疫を維持するために強力です。
Seperti diketahui, minuman yang berbahan dasar rempah ini biasanya diminum saat cuaca sedang dingin. Meski awalnya dianggap hanya berfungsi untuk menghangatkan tubuh, lambat laun wedang jahe dianggap mampu memperkuat imunitas.
知られているように、このスパイスベースの飲み物は、通常、寒い天候で飲みます。最初は体を温めるだけの役割を果たすと考えられていたが、徐々にウェダンショウガは免疫力を強化できると考えられている。
Hal tersebut dipaparkan pakar herbal, dr. Muthaharrah M.Si., dalam acara Hidup Sehat. Menurutnya, jahe merupakan herbal yang sangat berkhasiat bagi kesehatan saluran cerna. Di dalamnya, terkandung sifat antimikroba yang menjaga saluran pencernaan tetap berfungsi dengan baik.
これは、ヘルシーリビングの場合にハーバリスト、ムタハラM.Si博士によって提示されました。彼によると、生姜は胃腸管の健康のために非常に効果的なハーブです。その中に、胃腸管が正常に機能し続ける抗菌特性が含まれていた。

私が小中高生の時、冬、夜遅くまでか、朝早く起きて、毛布を背負って勉強していると、母親が、必ず、ちょっと砂糖も入れた温かい生姜湯を作ってくれた。鼻水を拭きながら飲み干した。
今も、生姜ミルク、生姜紅茶をよく飲んでいる。

https://www.youtube.com/watch?v=ahRVJsEzppM
Bikin Geger! Ular Piton Ini Muncul di Dapur Rumah Warga
1601626691454_copy_800x450.jpg

https://www.youtube.com/watch?v=9kEDhKV4lzs
Kisah Gadis Cantik asal Bogor yang Jadi Pelatih Harimau

運転している車、昼に家に戻って、14時にEJIPの会社へ行く約束に間に合うように13時過ぎに、家から出ようとしたら、チェンジが利かなくなっていた。ニュートラルのまま、どこにも入らなくなってしまっていた。結局、訪問の約束は理由を言って、来週にしてもらった。それはいいのだが、14時ごろ呼んだ修理屋が、原因を言って、工具とパーツを用意してくるといって、どこかへ行ってしまった。ところが16時になっても戻ってこない。電話をしたが通じない。そこで、会社に連絡をして、月に修理屋を頼んでもらった。それが来たのは21時だった。そして、チェックし、前の修理屋と同じことを言っていたが、当然、修理は明日になる。ゴルフ6時に出発予定。キャディーの一人に明日の迎えを頼んだ。
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

(^_-)-☆勝手に懐かしい [思い出]

 3896 Greenland International Industrial Center(GIIC)のPT,USUI INTERNATIONAL INDONESIAを訪問した。この辺りでは、最新開発の工業団地で、一年以上ぶりにこの地域にはいったが、まだ、見渡す限りと言っても過言ではない、広大な土地が造成されたままになっている。
aDSC05003.JPG
aDSC05004.JPG
何故、USUIを訪問したかと言うと、私が約55年前、大学を卒業して就職先が、東洋プラスチック精工(現在、東レプラスチック精工)静岡県清水町柿田だった。その会社が東レ50%極東貿易と地元の有力企業、臼井国際産業が25%ずつの合弁会社だった。東レの原料を使い、極貿がドイツからの製造技術導入をし、臼井が初の客先になるという構図だった。臼井は、同じ清水町に本社工場があった、バンディーチューブと言う製品の製造販売など、車のエンジンルーム内にセットされる部品が多かった。

それらの会社からの出向者が会社の上の位置にいた。平均年齢、多分、40歳くらいの方々だった。臼井さんが近かったこともあり、社内囲碁大会によく参加していたし、子供が保育園に行けないときに、近くの臼井の社員の家に預けて面倒を見てもらったり、仕事もナイロン6のチューブやその3次元曲げ加工品を私が作って供給いた。私ではないが、車のラジエーターのクーリングファンをナイロンやそのガラス繊維りで作って納めていた。

そんな懐かしい会社がインドネシアに進出していることを最近知って、直ぐに訪ねてみたくなった。

マーケティングの日本人の方が対応してくれた。臼井に入ってまだ二年ちょっとだという方、プラスチックの押出とは縁がないし、臼井の歴史などにも関心がないだろうに、55年ほど前のの話から始めて、インドネシアで23年過ぎたという話まで、勝手に、話させてもらった。仕事としては、熱収縮チューブを国内調達をしたいという話はあるが、原料さえ入手できれば、作るのは簡単、私が手伝う必要はない。と言うことで、私の話をよく聞いていただいたと思っている。ウェブサイトには書いてあるが、話をする機会はないので、つい、話してしまった。

http://otaenplaext.net/concept1.html 私の現在のウェブサイト(ホームページ)の表紙です。
http://otaenplaext.net/concept172.html 大学卒、会社勤めの1966年あたりから1973年 東洋プラスチック精工、TPS(東レプラスチック精工)時代です。

インドネシアのPT,USUIは、GIICに2012年に進出した。
http://www.usui.co.jp/
aDSC05009.JPG
http://indonesia.fact-link.com/mem_profile.php?pl=jp&mem=00001055&page=00101083
サラリーマンのころの会社の親会社の一社だった。勝手に臼井国際産業の宣伝です。
aDSC04999.JPG
チバトゥインター付近からデルタマス方面に向い、デルタマスインター手前の信号で大渋滞。大渋滞がこんなところにまで現れている。大型の車は通行出来ない通りだが、それでもこんな状態だ。イジップとMM2100の連絡道も最近は大渋滞になる事が多い。
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

(^_-)-☆独立開業跡 [思い出]

 3631 家にじっとしていても仕方がないので、ぶらりと東へ向かった。昨日投稿してた、“退職から開業へ“の後を、今どうなっているか、辿ってみた。

先ず、裾野方面に向かってみた。小山君が住んでいた五龍の滝辺りから、葛山のフジプラ精工の跡地を探してみた。20年ぶりだ。いってみると、辺りはさま変わり、田舎の田んぼや野原や中途半端な沢、舗装されていない凸凹山道だったはずの場所が、方向が分からなくなるような狭い道がくねくねとした住宅地になってしまっていた。あったはずの目標が全くなくなってしまっていて、諦めた。もし、その場所を聞いても、知っている人はいないだろうと、諦めた。

246を下って、私が住んでいた長泉北小の脇を通って、沼津インターの脇を通って、なお南下し、昔の通勤道を辿った。沼津学園前の広い通り、東海道本線のガードをくぐり、国一を横切り、沼津市役所を左に見ながら、なお、南下、しばらく行って、斜め左、香貫山の裾野方面により、思い出を辿りながら、狭い魚の干物工場のが集まる場所に到達した。この辺りだが、なかなか見つからない。ぐるぐる回ってやっと見つけたのは、車の交差が難しそうな狭い道沿いだった。名取製作所が別の会社になっていた。あったあった。ここは、何年ぶりだろうか、二軒並んだ50坪ほどの建物、奥の方だ。まだ、あった。まだ、使われていた。45年前から40年前まで、ここで仕事をしていた。裏に大きなマンションができていた。隣の駐車場は、其のままだ。この今、自転車がある場所、名取の社長が工場の窓から顔を出して、“太田君、儲かっていそうでいいな”と、何度も言っていた。
xDSC00769.JPG
xDSC00779.JPG
DSC00780.JPG
富士山がこんな風に見える場所でした。


https://www.youtube.com/watch?v=8uxPHM6NDlA
Penampakan Panggung Band “Seventeen” Pasca Diterjang Tsunami
スンダ海峡津波の昨日のニュース。タンジュンルスンの現状をレポートしている、コンサートはプールと海岸の間の狭い広場でしたね。テントの骨組みがくしゃくしゃな状態で積みあがっていますね。プールの水が何故か亡くなっていますね。
https://www.youtube.com/watch?v=Kisy6z-gk1o
これは、このリゾートホテルのプロモーションビデオです。見る影の無くなってしまいましたね、再建するのでしょうか、どうするのでしょうか。 
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

(^_-)-☆就職活動 [思い出]

 3531 隙間開きチューブのトライを始めている。原料はHDPE、歪が大きく難しい樹脂だ。全く、初体験の形状だ。径は勿論だが、隙間の幅も安定させなければならない。チューブを切る方法と最初から異形、Profileとして、作る方法の二つの方法を考えた。先ず、簡単な方から、チューブを作って切り込みを二か所入れてみた。閉じて30φになるだろうことを想定して、35φのパイプでやってみた。やっぱりというか,なるほどというか、厚さや速度によって、切った後の閉じ方が一定しない。パイプだから、外は水で冷やすが、中は空冷、それも、予冷だから、冷却速度が違いすぎるから、歪が大きくなるはずだ。そして、その歪が一定していないので、小さく閉じ方も一定しなかった。残念、この方法は不採用とした。しかし、もし、LDPEやPPでもいいなら、多分、歪の少ないから、安定すると思う。
IMG_1518.JPG
次は、プロファイルの金型、最初から開いて溶融樹脂がでてくる溶融金型とそれを冷却しながら形を整える冷却金型を作ることにした。この方法では,内側の冷却速度をコントロールしやすいので、一定した形のなるはずだ。それに、切り落とす必要がないから、原料ロスも少なくなる。金曜日のトライになる。

話は変って、東京オリンピックの前、今年大学二年の就職活動への影響はいかに、求人状況は少子化も相まって上昇傾向にあるが、世間が、何かと催しが多く成り、就職活道の相手をする余裕がなくなるから、自由化の影響もあり、就職活動をしにくくなるような文章が紹介されていた。

1964年、東京オリンピックの二年前、大学二年生の時、当時以前は、3年になった4月には、と求人が揃いだし、7月、夏休み前には、就職先は決まっていた。それも、一部上場の大企業ばかり。しかし、どうも、先輩たちの様子が変だと感じた。どうも、求人数が減っているらしい、先輩たちが就職試験行き、採用されないケースが増えているようで、何社も受けに行く状況になっていた。それでも、皆さん、8月前には就職先が決まって行った。ただし、二部上場会社の比率が多くなっていた。そして、世の中、それまでの景気上昇に陰りが出てきたという報道も増えてきた。オリンピックに関する大規模工事の終了が近かった。
そして、私たちにその時が来た、3月、4月、一向に求人が舞い込まない。応化の事務所の掲示板の求人票に何も貼られていない。私たちのどうなっちゃったのか、と思ったが、先生方の方が焦ったと思う。今迄の繋がりがある企業に問い合わせても、求人ゼロという返事しか返ってこないようだった。待つしかない。しかし、6月、7月になって、やっと、10社ほどの二部会社から、有っただけだった。私は、その中から、7月に保谷硝子を受けに行った。100人以上集まっていた。その時の会社の説明が、成績のいい方から二三人、採用予定、成績次第では、採用をしないという。こりゃダメだと思った。
当時の私の先生は、赤尾洋二先生だった。つい二年ほど前に亡くなった。私を心配して、お兄さんが極東貿易で役員をしていたのをコネにして、静岡東部の柿田川湧水の近くにできたばかりの、三島東レと直ぐそばの臼井国際、そして極貿の合弁会社、東洋プラスチック精工に押し込んでくれた。この不景気が私の一生の仕事を決定付けたのだから、運命など予想できませんね。

同級生39人の内、多分、27~8人は、小企業、中小企業に就職、大企業就職者は1人?、そして、他の大学の大学院へ3人ほど、梨大の大学院へ8人ほど、進んだ。望んだ就職をあきらめて、大学院にした人もいた。その時の同級生が何人か、10月にインドネシアへやってくる。

そして、私は何とか就職先が決まったあと、オリンピックを見に行くことができた。私が4年になったとき、後輩の状況も似たりよったりで、気の毒だったが、私が就職したときから、急激に景気が回復し、間のなく、バブルに突入していった。何とか景気という好景気が繰り返されていた。

ということで、私はオリンピック前の急激な景気下降を心配する。今の2年生、来年、景気が落ちていないといいですね。

また、別に話、肥田さん、つい先日、亡くなられましたね。お世話になった方も多いと思います。19日 リッポチカランのメドグリーンのご自宅で、告別式、18時から、と聞いています。私は、仕事ではなく、ゴルフの方で大変、お世話になりました。ご冥福をお祈りいたします。
set6og3vw.jpg
ws7c1u9v.jpg
青い炎とここは、明るくなって外輪山を歩き日の出を拝みに行った帰りだ。例のリアカーはこういうものです。
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

(^_-)-☆出会い [思い出]

 3349 私から求めた環境や出会いではなく、また、そこでなければならないと他人に押し付けられたわけでもなく、何となく入り込んだり、何となく、会ってしまった環境や人から将来の方向がほぼ確定された。運命というか、付いていたというか、そういうものだと思う。それらを参考にしよう、見習おう、その中で生きていこうと思う。

大学は、公立、浪人ダメという条件だった。一期校、二期校があって、一期校は、無理だと思いつつ受けたが、発表を待つまでもなく、出来が悪かった。二期校は、滑り止め的で、人口宝石で名の知られた梨大応用化学、小学校のころ、山の子海の子交換会で行ったことがったのも理由の一つだった。入ってよかった。妻と知り合ったのもここだったし、三年後半から赤尾先生にお世話になったこと、全く、偶然の世界だ。今、インドネシアで、自分がやりたいことでできているのは、これらの出会いのおかげだと思っている。二十歳のころだ。武田神社で町内の方々から、招待されて、成人のお祓いをしてもらった頃の話だ。間もなく新幹線が開通し、東京オリンピックが開催されようとしていた。カラーテレビの試験放送も始まっていた。こんな環境の中で、恵まれた出会いでした。赤尾先生には卒業してからも仲人を引き受けていただいた。プラスチック押出成形と出会った就職先も先生のお兄さんが役員をされていた極東貿易のお世話が大きかった。今はどうなっているのでしょうか、東プラ精工は、東洋レーヨンと極東貿易と近くの臼井国際の資本が入ってた。エンプラ押出の日本でのパイオニア的存在だった。

そして、約二年後に、仕事中に現場から応接に呼び出されて、ご対面となったのが、当時、北川ゴム工業の北川社長だった。アメリカの見本市で見つけてサンプルを持ち帰ったのが、射出で作られる結束バンドと自在ブッシュ、そして、押出で作られるエッジングとグロメット。射出製品は、既に、多くの会社がやっていたので、その話ではなく押出製品の方を見せて、太田君、これできるか?問われた。ちょっとだけ、考えて、できます、やらせてくださいと言ってしまった。
http://otaenplaext.net/newpage305.html
今の年になれば、私の履歴書ではないが、書いておきたいことが沢山あるでしょう。私も、そんな年だから。

北川弘二社長、後に会長には、それ以来、付かず離れずのお付き合いをさせていただいた。独立してからも気にかけていただき、仕事を出していただいた。私が社長を辞めて海外へ行きたいといっていた時も気にかけていただき、インドネシアへ進出の時に、どうかね、と、声を掛けていただいた。その後も、機会あるごとに、将来について話をさせていただいた。インドネシアで厳しい状況に置かれた時も、気にかけていただいていたし、帰国したときにいは、挨拶によく出かけていた。跡継ぎに関しては、相談を受けるようになっていた。私は、副社長がやりたいようにやれる環境を自然に整えたらいいと思っていた。

赤尾先生、北川社長それぞれにとって、私は、ワンノブゼムに過ぎないと思う。私以外の多くの人に影響を与えているはずだ。
IMG_1947.JPG
IMG_1948.JPG
IMG_1949.JPG
最近、妙に多くなった注文。S-PVCチューブだ。サイズもいろいろ、色もいろいろ、この種のチューブは技術的には、簡単に作れるから、ローカル企業でできる(内もローカル)それなのに、どうして、うちへの注文が増えるのかわからない。客先が忙しくなっているのでしょぷ。コリアン系である。
IMG_1953.JPG
Durian Ambruk ファーマーズマーケットへ買い物行った。入り口でドリアンを売っていた。我慢できずに買ってしまった。これで、15万Rp(1200円くらい)アンブルックという種類は、西部ジャワと中部ジャワにある。小ぶりで丸く整った形をしている。インドネシアの大部分の種類は種が大きく、実の80%くらいが種で、大体、がっかりする。この種は、その中でも種がそれほど大ききないといわれている。それでも、食べてみたら、70%ほどは種だった。私が普通買うのは、モントンという種類で、これなら、種より食べる部分の方が多い。タイからの輸入がほとんどだ。モントンも売っていたが、試しにこちらを買ってみた。
この方たちと会っていなければ、こんなところでドリアンをよだれを垂らしながら買ったりしていない。
タグ:偶然 出会 運命
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

(^_-)-☆高校一年 [思い出]

 3347 選抜の組み合わせが決まりましたね。駒大苫小牧、強豪でしょうね。せめて、一回くらいは勝ってほしいですね。早く負けてしまうと、寄付金が余ってしまうでしょ。

自分から求めたわけではない環境になってしまい、それが、ターニングポイントにる場合がある。 当たり前のように、静高に入った。勉強も運動も両立させるぞと。
当時、今もそうかもしれない。中学運動部で、優秀な奴は、特別枠で入ることができた。だからといって、勉強でも、中の上以上くらいが一応の条件にはなっていたと思う。それはいいのだが、私の一年の時のクラスのメンバーを見てびっくりだった。40人中、野球6人、柔道2人、バスケット2人、硬式テニス1人、剣道1人、重量挙げ1人、そして卓球1人私、私以外のメンバーは、野球部の一人を除いて、明らかに運動能力で入ってきた連中だった。そして、彼らは、県代表クラスになるだろう実績があった。事実、彼らの何人かは、後に、インターハイで優勝している。一つのクラスに纏められたのだと思う。で、何で自分がこのクラスに入れられたのだろうか。卓球はやっていたが、とてもじゃないが、市の代表の一部くらいになれるかの実績しかない私が、運動で引っ張られたわけではない。学力一本で入ったはずなのに、運動部連中が集まるクラスにいれられてしまった。多分、運動部に属さない他の20何人は、私と同じように思ったと思う。

 昨年末、中学3年の同級会をやった。何度も書くかも知れないが、その中に、高校一年の時、同じクラスになった野球部員がいた。彼は、中学野球県大会で、準優勝メンバーで主将、首位打者にもなったやつだ。勉強もクラスで二三番に入る実力だった。そして、高2の時に、甲子園で準優勝メンバー、セカンドだった。決勝で法政二高の柴田から二本のヒットを打っている。私自慢の同級生だ。そいつが、この前の同級会で、中学の時の話はさておいて、高一の時の話をした。“太田、お前な、俺にな、こんなクラスに入れられたばかりに、馬鹿になっちゃよ、ボールの紐を縫ったり、グラブの手入れをしたり、授業中だぞ、勉強の雰囲気なんて全くない、そんなことばかり言っていたよな”思ってはいたが、実際、彼には、ぼやいたのかな、あまり、覚えていないくらい、自然に言っていたのかもしれない。それが、彼にとっては、引っかかってたのでしょう。笑い話だ。

 中三のクラスの中に、サードの彼のほかに、ピッチャーとファーストもいて、中学野球の決勝戦で負けてしまった責任はお前だ、いや、俺じゃない,あいつだなどと言い合っていたのも、面白った。

 周りに影響されるのも自己責任かもしれないが、高一の時、あのクラス以外だったら、他の大学に進んでいたと思う。別の人生だったと思う。クラス分け担当する人物は、そんなことを思ってほしいね。その人の人生の方向を決めるかもしれない。選抜組み合わせのニュースを見たので、ふと思った。
IMG_1890.JPG
IMG_1891.JPG
ゴルフの後、会社によって、一寸仕事、終わって、出口に向かう。小さな工場の並び、プレス機が、とんとんと,稼働していた。外に道に出る、手前の水溜りは、雨季中、消えない。このクラスでなかったら、この写真もなかった。
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

(^_-)-☆中学同級会 [思い出]

 3235 終わった。74歳、同級会。私がやらなければ、やらない同級会、5カ月余りの日本滞在中の一行事だった。会場もどこにするかわからない、地元にずっといる同級生の一人に相談して、決めた。そして、皆さん、大学の同級生と違って、メールアドレスを持っていない人がほとんどで、ずっと以前と同じように、昔の住所録を頼りに確認の往復はがきを送って、正誤の確認から始めた。三分の一が、住所表示が変えられていて、届かなったり、その住所はあるが、そこにいなくて、届かなかったりして、戻ってきてしまった。それでも、以前の名簿の電話番号にかけてみたり、住所が近かった人に聞いてみたりして、何人かの住所を確認した。住所表示の変更については、市のインフォーメーションに変更後の町名を確認した。旧名簿の後、亡くなった人も何人かいた。
出欠の返事をもらうための葉書と案内状や会場地図を送って、出席の返事は、45人中16人だった。三日前に、うちの母が緊急入院をしてしまったという知らせが入り、結局、出席者は、担任だった先生を含めて、16人だった。

会場は、元慶喜の別荘の近く、静岡駅の近くでした。繁華街の近く、勿論、初めてで、自分が地図を送っておいて、場所を見つけるのに戸惑った。インドネシアの方が全く迷わない。15:30開始で、私はその20分前に着いたが、既に10人ほど見えていた。懐かしい顔、10分前には、予定通りの16人が、揃った。全ての人の名前は、呼んでみた。合っていた。

私の挨拶から始まった。とにかく、皆さん、気さくだ、現状報告から、ずっと昔の話、話が弾むこと、いつの間にか、自分も移動しながら、巻き込まれていた。時間は瞬く間に過ぎた。

私たちのクラスは、何故か運動部に入っている人が多かった。野球部が四人中三人出席していた。ピッヤーとサードとファーストだった。彼らのチームは、県で三位になった。それでも、凄い成績だった。そのことを、自分たちはよくやったよな、という話をしていた。その話を聞いていたら、そのうち、ファーストが、ピーチャーに、あの時、お前が暴投しなければ、俺たち優勝していたはずだよな、と言い出した。すると、サード(こいつ、この県大会のリーディングヒッター、後に、甲子園で準優勝メンバー)が、そうだ、今思い出した、お前が暴投したのを。すると、ピッヤーが、違うぞ、セカンドに、お前の足が短い、手が短い、グローブを出すのが遅かったからだと、言い返した。すると、サードがそうだったよな、ファーストに向かって、お前、ベースに足がめり込んでいるようだったものな、と言い出した。この話、げらげら笑いながらだ。

次回は?二年ごとにやってよという。やってよじゃなくて、お前やれよと、何人かに言ってみたが、やはり、次は私がやるよという人はいなかった。次は、いつになるでしょうか。

二次会として、何となく、ばらばらになって、ついていったら、カラオケへ、歌は、ちょっとで、ほとんど、話をしていた。やれやれ、と、皆さんと別れたのは22:30くらいだった。バスに乗るつもりで新静岡ターミナルへ行ったら、最終が過ぎていて、今度がタクシーを探した。まだまだ、街は賑やか、若者が多かった。そんな中を何となく、歩いて、静岡駅方向に、タクシー乗り場に、ついた。

ここから、ありえない話。次々と、乗り込む人がいて、私の番、チョコレート色の個人タクシーに乗り込んだ。丸子6丁目へ、新道を行ってという。運転手、途中で、サークルケーで、旧道に入りますかという。いや、そこの信号を過ぎて、すぐ左に、車はその通り、狭い家に向かう道に入る。家の前に車が止まっていたので、ここでいいと、下りようとした。車の明かりをつけて、運転手、太田さんでしたか、という。え、と、顔を見たら、筋向かいの若者だった。自分の家の前にとまったのでした。びっくり、偶然というにしては、あまりにも偶然でした。

この話は、置いておいて、今日の同級会で、私より熱心に手伝ってくれた人がいた。身体障碍者の補助の活動をしている人で、この人にも偶然中の偶然で会った話は、その時に、書いたが、今日も、何となく、最後、握手をして分かれ、バス停に向かうまで、手伝ってくれた。感謝。
IMG_2192 ー.JPG
記念写真を撮った後、皆さんが去った会場。座敷では、立ったり座ったりが大変だろうと思い、いす席にした。
IMG_2193.JPG
この料亭のエントランス。
   

バリ島、アグン山の最新情報の一部です。
http://news.metrotvnews.com/daerah/zNA7Y93k-gunung-agung-erupsi-13-penerbangan-dibatalkan
Gunung Agung kembali erupsi dengan menyemburkan material abu dan kerikil. Semburan asap kelabu membumbung setinggi 1.500 meter pada pukul 17.20 WITA, Sabtu 25 November 2017. Belasan rute penerbangan dari dan menuju Bali pun dibatalkan.

アグン山の二度目の噴火で、噴煙の方向が、南西ということですから、デンパサールの街やウングラライ空港方向になる。まだ、50kmほど離れているから、空港閉鎖にはなっていないが、オーストラリア各地からの13便を自主的に欠航にしている。

nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

(^_-)-☆大学同級会 [思い出]

 3188 来ている、甲府である。10時に出発、ノンビリぶらぶら、決まりの興津から北へ向かう。学生時代、甲府から自転車で静岡まで帰った時、通った道を逆に甲府に向かった。今回は迷うことなく、ひたすら、甲府の看板通りに進んだ。駅を目指し、左に舞鶴城址と県庁の間を通って、中央本線を越えた。会場には、15時ころ入ればいいので、思い出の地を巡りだした。
先ず、小学校の時に、山の子、海の子交換宿泊で、武田神社の左隣にある相川小学校を横目で見ながら、宿泊した塚原部落?まで行ってみた。泊まって家はどこか覚えていなかったが、バス停は見つけた。大学時代にも、何度か、お世話になって家にはいったことがあった。
少し下って、護国神社、そして、なんといっても、竜が池だ。武田神社の右隣、石積みで囲まれていて、中を見ることができないが、学生時代、冬になれば結氷する感慨用水池だ。学校へ行く前に、毎日、アイススケートに通った池だ。氷が割れてハマった同級生もいた。
1IMG_1420.JPG
愛宕山上った。護国神社の方からだ、学生時代、卓球の練習の前に、走って上った道だ、昔は舗装して無かったが、今は、綺麗に舗装せれていた。大学を見下ろしながらだった。頂上ちょっと下にこども公園?になっていて、車の制限時間が17時までだった。16時半に到着し、急いで、車から降りて、ちょっと南下に走って甲府の市街地を上から眺めた。富士山の頭が、御坂連山の向こうに、昔と同じように見ることができた。
1IMG_1382.JPG
1IMG_1384.JPG
降りてきて、大学の構内の昔懐かしい応用化学の建物を眺め、そこから、一段上がった、昔、学生課があった辺り、山梨高専時代からの建物、当時がT-0教室だったところの階段、この階段は、皆さんでよく記念写真を揃って取った記憶があるし、その上にがって左側に藤棚がある。当時、学芸学部の女性もこの下によく来ていた。私の妻とも、この藤棚の下で立ち話をよくしていた。“薄紫の藤棚の下で歌ったアベマリア“という歌が流行っていた。

18時前には、芙蓉というホテルに入った。私が最後のようだった、皆さん元気、ただ、自己紹介が、ちょっとね、話がくどかったり、つじつまが合わなかったり、話の焦点が合っていなかったり、聞く方も、あまり、理解していないようだったり、歳を感じさせられた。ま、とにかく、にぎやか、皆さんは、私を会うのが、久しぶりだったこともあり、私からに話はよく聞いてくれたと思うし、興味があったようだった。中に、次はインドネシアでやろうよという話もしていた。

若くして亡くなったK君以外に二人の方が故人になっていた。

ジャカルタースラバヤ間の中高速鉄道への改良工事が来年から始まるようだ。600km以上あるジャカルタ^スラバヤを今は11時間、事故も多い。それを5時間、無事故路線にするという。日系企業で、2021~22年に再開業、中国の高速鉄道、ジャカルタ、バンドゥンは、霞んでしまうでしょう。インドネシア人は、日系企業に大いに、期待している。
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

(^_-)-☆楽しい体験 [思い出]

 2836 中学から卓球を始めた。高校も卓球部に入った。しかし、中学でも高校でも同じ学年の仲間では、実力は二番手だった。ほどほどうまく成るのだが、一番にはなれなかった。学校自体は、在学中、二番手三番手としてでた、 団体戦で中学の時は市で二度優勝、高校の時には、県中部で準優勝と三位だった。私は、中途半端に、ほどほどだったと思う。それでも、文武両道を何とかやっていたという意識はあった。
静高の時は、滅茶苦茶楽しかった。(大学の時はもっと楽しかった)顧問の先生は一応いたが、いなくてもよかったし、いない方が、自分たちで運営するのに、いちいち、届けや、許可を取らなくていい。だから、顧問は、私たちに全面任せ、遠征の時だけ、学校から離れられると、喜んでついてきた。

キャプテンは実力が一番の者、二番手が、なぜか、マネージャーになることになっていた。私は一学年先輩のマネージャーの仕事をみて、大変だが、経験しておきたいと思った。いろいろの根回し、準備、キャプテンより、よっぽど、いい経験になると思った。二年の秋から、狙い通りマネージャーになった。卓球の方は、ダブルスに一番手と組んだ、団体戦は、シングル2、ダブルス、2シングルになっていて、三勝すれば勝ち、私は、ダブルスとシングルの三番目に決まっていた。大体、私で決めてしまおうという位置だった。一二年の時は5番目のシングルのレギュラーだった。これも、いい役まわりだと思っていた。私が勝って、勝利に貢献したこともあった。

さて、マネージャーの仕事、予算の獲得、先輩や後援会、その他、公共や商店街などから、多くのクラブ応援の資金が寄付されている。それの配分獲得交渉だ。自分たちの運営予算を立てて、それ以上の配分を要求するのです。ユニフーム、ボールがいくらで、いくついるから、合計いくら、卓球台を新たに買いたい、修理もしたい、遠征にいくらなどなどおもしろい。余らせることが出来れば、みんなで、食事会などができるから、掛かりそうな金額より、水増しをして出す。実際、この時から、領収書も金額を多く書いてもらうことをやっていた。有る運動具やと暗黙の提携をしていて、ボールや各種道具を買う時には、実際支払った金額に20%ほど、多い金額を書いてもらうとか、ネットやラバーを余分にもらうなどをしていた。高校の時から、静高生は、将来、官公庁で仕事のやり方を体験学習していたのです、こんなこと、やっていいの?と、思いながら。今でも、当然、やっていると思う。野球部なんかは、甲子園に行けが、多額の寄付金が集まる、そして、一回戦で負けてしまえば、多額が余ってしまう。それを、どうするのでしょうか、後援会費用の残高としておくのでしょうが、皆で適当に分けることにもなるでしょう。それを、他の部でも狙うには当然でしょう。

練習場所の確保や他校との交流。体育館の四分の一が私たち卓球部に与えられた場所でした。三面を置けた。剣道部が隣の四分の一、半分はバスケットでした。バスケットは、インターハイ常連で優勝をしているし、いつも、上位にあったチーム、きつい練習をしていて、気の毒に思ってみていた。と、いうことで、彼ら優先だから、何かと、彼らが全体を使うことがあった。その時は、前もって、知らされていたので、私たちは、他の場所を借りることになる。多くの場合は、近所の女学校に申し込む、今はどうか知らないが、当時は、城北、双葉、英和、精華、常葉がほぼ4km圏内にあった。それらの学校の顧問の先生に電話して、許可を取る、それは、皆さん、快く?OKをしてくれる。試合などで、顔見知りだし、静高だから、歓迎、そして、何より、迎えてくれる生徒は大喜び、男子禁制など問題なし。私立の学校が多いから、静大生がコーチをしている学校もあり、その静大生には私たちの先輩もいた。そのつてで、体育館が使える日でも、のこのこ、出かけて行ったこともあった。

合宿や先輩たちとの交流、新聞発行。夏休み中、年に一度の部内の選手権があって、先輩を招待する。合宿中に行われることが多かった。社会人、大学生などに参加してもらう、先輩名簿に従って手紙を出した。年に一二回部活動報告ミニ新聞でも、その予定は知らせる。55年前のことだが、今でも、私の処にも送られてくる、寄付金の振り込み用紙も丁寧に同封されている。合宿中のコーチを自主的にやって頂く、卒業して間もない先輩は、夜、泊まり込みで、卒業した後の体験談をしてくれた。私も大学生中は、コーチ役もしたし、泊まり込みもした。スイカなど差し入れもした。当時はお米持参だったので、お米も持って行ってやった。先輩の差し入れは当たり前のことだった。

卓球台で練習する前に体操は勿論するが、学校の外へランニングしに行く、学校一周、1kmは十分あった、4周が普通だった。それでは、面白くないから、浅間さんにも行ったし、百段何往復は普通、ずっと登って行って、地獄谷と言われていた急坂を転げ下り、臨済寺に至って、当時の静大の脇を通って帰ってくるコースもよくいった。また、駿府城の内堀一周も何回も行った。時には、外堀一周もやった。これは、目的の一つに女学校巡りのようなものでもあった。一寸、遠回りして、わざわざ、何か所かの女学校の前を通るのです。学校の前に差し掛かると、なぜか、皆、元気になるし、掛け声も出る。校舎の窓から、多くの学生が手を振ってくれる。それに、手を振ってこたえる。なんてこともやっていた。城北へは方向が違ったし、距離もあったが、そちらにも出かけていたし、一緒に練習する機会も多くあった。

それらの段取りを任せられるのがマネージャーでした。良き、思い出になっている。全然、苦にならなかったし、この役、他の人に取れなくてよかったと思った。既に、無意識のうちに、そのころ、色々の根回しのようなことをやってみていたのでした。
IMG_3151.JPG
IMG_3153.JPG
新工場の現状、最初の完成予定から一か月過ぎている。二回の完成予定日も4っ日、過ぎている。この様子では、まだ、二週間以上かかりそうだ。それに、おそらく、出来たと言われた時に、あそこがダメ、ここがダメと、クレームを沢山つけることになりそうだ。


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感