(^_-)-☆富士川の思い出 [人生]

1032 日本へ戻って最初の休日、妻の生け花教室があって、生徒や友達が大勢集まるので、例によって、9時頃には家から出ていかなければならなかった。上の子は小学校の行事で母親と出かけてしまったので、下の子の面倒も見なければならなくなり、二人で、車で出かけた。特に行く処も無いので富士山が綺麗だったので、富士川まで行ってみた。生まれ故郷の川原へ孫と行ってみたことになった。
4才までこの近くにいて小学校の時には毎年、おじさんの家に一週間ほど泊って、従兄弟たちと遊んだ。
川原の様子で一番変わっていたことは、サッカーグラウンドがかなり広い範囲に何面も作られていて、それらの全部で若者から年寄りまでプレーしている事でした。私が昔ここにいたのは戦後10年以内ですから、当時は、川原に畑が作られていて今で云う、家庭菜園でした。それが勿論今でもあるが、当時の風景とは全く違う。
私の記憶はこの川原で沢山残っている。今の新幹線、東名、バイパス、水道の橋は無く、一号線と東海道本線の橋しかなかった。その二つの橋の間に多くの畑が作られていて、リヤカーと背負いかごと鍬が道具だった。リヤカーに乗って後ろ向きに足を垂らして坐って、行き帰りをした姿が残っている。薩摩芋やニンジン、トウモロコシ、エンドウ豆など、喜んで収穫や種まきもした。ひもじいとか寂しいとか、つまらないなどという記憶は全くなし、近所のおじいさんやおばあさん、おじさん、おばさんにも可愛がられた記憶ばかりで、畑へ連れて行ってもらったり、米屋でお米、ピーナッツや冷凍イカや炭などの配給がある時には、少し、余分に貰ったりしていた。
本当に恵まれた環境で育ったし、何が足りないなどと思ったことはまっくなし、この富士川付近での幼少時代は静岡に移ってからの生活と重なる部分はあるが、どちらも、恵まれ過ぎるくらい恵まれた環境で育ったと思う。
8月お盆の祭りで、川の真ん中の川原に竹竿の上に籠が着けられ、その籠の中に火が付いた松明を投げ入れるという祭りがあった。其の辺りの青年が大挙して参加し、大騒ぎの雰囲気の中で子供ながら強烈な記憶が残っている。子供は全く近づくことも出来ない。今はその祭りがあるかどうかは知らない。
 この付近の思い出は富士川だけではない。山のミカン狩りや昆虫採集や左目横の大怪我や右足脹脛の大やけどや二歳下の妹の出産の時の様子、石材加工、其の上、お墓や焼き場の様子もはっきり覚えている。
IMG_2136.JPGIMG_2136].JPG安倍川の富士、富士川の富士、昨日の平地の雨は富士山の頂きにほんのり冠雪した。もう、来年の春まで消えないでしょう。どちらの富士も私の生活の中に日常的にあった。
  
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