(^_-)-☆技術の広がり [押出成形]

 1898 私の技術の広がりは、日本国内とインドネシアにある。それらの会社では、私が二十歳代に考え付いた装置が基礎になっている押出成型ラインを使っている。東レプラスチック精工に社名が変わっているが、外の納入車への注意書きは東洋プラスチック精工のまま、というのが、面白い。で、この会社の押出成型の基礎的技術は私から抜け出していないようだ。私が辞めてしまった後に、後輩から何回か相談を受けていた。こういうことは、インドネシアの会社でも同じことだ。
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沼津市の南の方、志下(しげ)というところの貸工場で、一人で、1ラインで仕事を始めた。今から40年前の話だ。今は、このエリア一帯は、広い道ができ、干物の干場だった場所に、色々な店や住宅が建っているが、貸工場の周りは昔のままだ。二つ並んでいる工場の奥の方、左側に私が入っていた。手前が名取製作所の駐車場で道の右側、貸工場の向い側が名取製作所の本社工場だった。窓を明けて仕事をしていたので、社長が、覗き込んで、「お前の所は、遊んでいるようで、よく儲かっているらしいな」と、いつも、羨ましそうに云っていた。また、11や12ナイロンのチューブを納めていた関係で、アオイとう継ぎ手の会社の社長さんも、頻繁に会社に来ていた。後に両社とも、私の方法をそっくり真似して,自社で押出成形を始めてしまった。二人とも、私を応援していてくれると思っていたので、裏切られた気持ちで非常に残念に思ったと同時に、人の道に外れるようなことをしなければ生きてゆけない人に同情もした。
これに似たような話は、もう一社あるが、これは、その会社の経営者ではなく、製造責任者が、製品クレームを頻繁に付けて,そのつど、製造ラインのチェックだと言って、現場に入り浸り、挙句の果てに、自分がやったかのようにして、その製品を、その会社内で製造するようにしてしまった。その人間は、やはり、気の毒だなと思った。そういう人そういう会社のいずれも、私から持ち出した仕事だけをできるだけで、新しい仕事はできない。これは、インドネシアで技術指導した会社と様子は似ている。教えられただけ、真似しただけの技術では、応用が利かないし、やった事のない仕事に挑戦するということは無理な話でしょう。

沼津から静岡に移ったのち、沼津で手伝っていてくれた人に、工場や客先を譲った。それが、“セピック“という会社である。小さい規模でやっているので、十分、採算はとれている。ある程度大きな会社ができない仕事をしていて、心強い。安定して仕事をしているので、何も心配していない。

太田化工は、言うまでもない、20年前に、私の技術や客先や十分な内部留保を後輩に譲って、私は、インドネシアに飛び出してしまった跡です。ここも、こじんまりやっているので、この難しい日本の仕事環境でも何とかやっている。

もう一社、太田化工から飛び出したSKYという会社がある。私の孫会社とでも言うのでしょうか。装置は同じである。意欲的に新商品を開発中で、ひょっとすると、ひょっとするかもしれないという期待を持っている。

日本に私がらみの押出成形ラインは恐らく、30ラインくらいあるのではないかと思う。それぞれが、大儲けもしていないが、十分に経営はなりたっているようだ。新しい仕事に積極的に取り組んで拡大,ということはないが、それぞれが、独自の製品を継続してつくっている。スパイラルやエッジングがよい例だ。それぞれ、客先を掴んでいる。装置、技術、客先の相似形である。
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右側に私が大学を卒業して、この会社に勤め始めた時から結婚するまで約3年過していた独身寮、今は、別の使い方をしているらしい、左の駐車場、車がたくさん見える場所には、三階建ての社宅があった。組合長のときに要求して、建ててもらって、入居者第一号だったが、出てしまったのも第一号だった。手前は狩野川。IMG_5056.JPG

この門から入って、右の事務所と右側の倉庫の建物の間を右に曲がって、ますぐ行くと独身寮に行くが、すぐ左に曲がると押出成形の工場棟があって、その中に、丸棒や板をつくる固化押出ラインが7ライン、チューブやプロファイルを作る溶融押出ラインが4ライン、ガラス繊維や炭素繊維を混ぜた原料を作るラインが3ラインあった。辞める時には、その全体の責任者だった。
 
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