(^_-)-☆春雷 生温か [情報]

1147 夜明け前の雷で目が覚めてしまった。大雨が降っていたが出勤途中には止んで、生温かい変な感じの空気が漂ってきた。日本を感じた。こんな気候はインドネシアにはない。それと同時に花粉症の季節到来を感じた。この妙な空気は何十年も前から経験している花粉症の空気だ。そう思っただけで、むずがゆくなってくる。

 花粉症の思い出、小学校の低学年の時は既に、毎年、春になる前にヒドイ風邪を引く体が弱い子だと言われていた。鍛えるために4年生から6年まで冬は半ズボンで過ごした。それでも、毎年恒例の風邪は続いた。ちり紙といって、鼠色したお尻を拭く紙と兼用の鼻かみ用の紙を束でいつも持っていて、授業中も、クシャミは連発し、いつも、チンチン鼻をかんでいた。皆にうるさいから出ていけと言われたことは当り前でなんとも思わなかった。学年末テストの時は、いつも、時間の半分くらいで終わらせて、答案用紙を先生に渡して教室から出ていって、外で、ぶらぶらしていた。一日何科目もある時はその繰り返しだった。中学の時には科目毎に先生が変わっていたが、どの先生も公認だった。一年の時、校庭のテニスコートの脇でしゃがみ込んでハクションを連発していたら、校長先生が現れて、なぜ、こんなところにいるのかと聞かれたこともあった。終業式や卒業式、送辞を読むとき大変だった。そんなに別れが悲しくなくても花粉症で顔の真ん中付近はクシャクシャになっていた。そういう意味ではふさわしかったかもしれない。
 これは、インドネシアで仕事をするようになるまで、毎年、続いた。私が独立したころ30歳の頃、花粉症という病名が世間に現れた。当時は文明人が掛りやすい、野蛮に近い人間は掛らない、などと言われていて、自分は物心が付いた時から花粉症だったと言って、若干、自慢をしていたこともあった。しかし、その症状は毎年、ヒドイものだった。ちり紙ではなく、トイレットペーパーは毎年、5巻き以上は使ってしまっていた。鼻の周りは真っ赤でひりひりしていた。テレビや色々な人が、予防法や治療法や専門医などを云ってくれる。それを、いちいち実行もした。しかし、一向に効き目はない。いつの間にか、何も、対策をしなくなった。もう、完全にあきらめて、一生付き合うことに決めていた。しかし、1997年からほとんどこの季節には日本にいることは無くなったので、完全に花粉症から、解放された。この快感は私でなければ分からないだろうと思うくらいだ。4月1日、日本から離れるまで今年はどうか、十何年も掛っていないのだから、治ってしまっていて、掛らないことを期待する。
 花粉症と私の係わりあいは半端じゃない。エピソードは数え切れない、一冊の本が書ける。
 IMG_2961.JPGIMG_2961[.JPG春ですよ、菜の花と桜、梅の花と桃の花。
 
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