(^_-)-☆後継者 [押出成形]

 2625 私は、後継者について、30歳で会社を立ち上げた時に、後継者について考えていた。子供に継がせることは全く考えなかったというより、身内に後を継がせることにはよくないことだと思っていたし、特殊な仕事だから、身内のだれかに、継げる能力を伝えることは不可能だと思っていた。そこで、創業時から、能力が有りそうで、自らこの仕事をしたいという人間を探し始めていた。幸い、沼津の時に、富士プラ精工で一緒に仕事をしていた人が、私の後をついてきた。もし、私が沼津のまま、仕事をしていれば、そのまま、太田化工の後継者にするつもりだった。しかし、私の都合で、沼津が満杯になったとき、静岡に本社工場を移し、沼津が工場長として、任せた。そして、静岡は、私が50歳になった年末に社長を任せるという約束で、後継者の候補として三人いれた。そして、思うとおりに50歳で、その中の一人の社長をゆずった。沼津は、静岡の社長の方が若いし、後輩なので、部下にするのは、どちらもやりにくいので、その前に沼津は独立させた。いずれも、独立という形にしたのは私が50歳を過ぎて直ぐだった。いずれも、無償で譲渡した。ただし、静岡からは退職金を、受け取った。そして、その二年半後に、インドネシアにいた。

 そして、それから、二十年、双方の社長共に、後継者を育てていない。さてどうするか、ということで、太田化工へ、このことで、話をしに行ってきた。早いうちに、面倒を見てもらっている会計士さんを挟んで、打ち合わせをするように、ということになった。太田化工も後継者のことを、そろそろ、真剣に考えなければならない状況になっている。

 この仕事、後継者を作るには相当難しい。数年ではできないので、インドネシアでは、技術を伝えたすべての会社、集団の中に、芯の後継者はできていないままだ。そして、私の代わりの役目をするはずの、本社から派遣されている日本人は、すべて、技術的には、私に後継者になっていない。新しい仕事は取れない。
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太田化工への最寄り駅、用宗駅。昭和というより、明治風ですね。 
 

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