(^_-)-☆楽しかった [押出成形]

1153 40年以上前の私に嫉妬する。東洋プラスチック精工の人々はぜひ当時の事を、間違いのないように知ってほしい。
灯油で冷却の理由は隙間に入った水が突沸して製品が飛びはねまったく形にならなかったので、ジワリと沸騰して揮発する灯油を使ったのです。他にもポリエチレングリコールやグリセリン(コイリングチューブを作る時に150℃にして中に通した)を使っても良かったが、値段が高すぎた。
66ナイロンに6ナイロンを混ぜたり、それらのナイロンにエポキシ系の熱硬化性樹脂の液体を混ぜたり、色々な方法で成型性の悪さを改善しようとした。だから、純粋にその原料だけを使った製品では無い事の方が多かった。それをノウハウというか、テクニックというか、ごまかしというか、原料偽装というか、色々の見方は有るだろうが、それを積極的に明かすことはしなかったし、その混ぜものに依って何らかの問題や害を与えたことはなかった、製品が出来たことで誰からも喜ばれたし、評価された。その他に、ステバリなどの滑剤を混ぜたり、グリスを混ぜたり、お餅ではないが澱粉を混ぜたりして、製品の物性を改善しようとした。ひらめきは次々と浮かび、実行した。若いころの頭の柔軟性と実行力には我ながらすごかったと思う。今は、そんな元気は全く無い。

 私が二十代の頃はアメリカに既にある製品を日本で作り上げることに80%位の力を注いだと思う。しかし、技術を真似しようとは思わなかったし、アメリカでの製法を解明しようとはしなかった。独自のひらめきで、似たような製品を作り上げた。確実に私の方法の方が、設備は簡素だし、製造速度も速かったのではないかと自負していた。アメリカからの輸入をしなくても良いようにしてきた。破格の安さで提供したがそれでも当時ナイロンの価格は600円/kg以上していた、それを製品にすれば1800円/kgで売れた。
PCはナチュラルで900円/kg色ものは1200円/kgした。製品にすれば2700円、3600円で売れた。会社の利益に貢献するとともに、ベースアップや労働協約の交渉を強気ですることが出来た。
 自分が経営者になってから20年くらいは、既に開発した製品の量産に追われていたし、アメリカや他の先進国から見つけて来た新しい製品といって頼まれることも無くなっていたので、それまで積み上げてきた技術で受注をこなしていた。

インドネシアへ来てからは日系企業が日本から輸入している押出製品の現地調達のお手伝いをし始めた。日本から輸入しなくても良いようにしてきた。そしてそれらの全てが日本の中小企業の押出成形技術者がそれこそ何年も掛けて物性や形状を確立したものです。私はそれらの製品を作ったことがなかった。状況はアメリカからの製品を国産化した時と同じだった。製法は同じはずがないが、そっくりさんを3ヶ月以内には作ってサンプルを提供してきた。今の会社ではそれが出来ないでいるので、間もなく、それが出来るような状態にする。独自の方法で製品を作り出すのは快感~~~~!!!
IMG_0312.JPGIMG_0312@.JPG平均的なインドネシアのレストランの価格とヤーカンクン(空芯菜)というメニュー
   
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