(^_-)-☆移民政策の結果 [旅]

 1246 Meraukeが充分田舎だが、もっと田舎へ行ってみた。どうも、郊外へ行く方がイスラムが多いようだ、そして、ジャワ島からの移民がほとんどのようだ。昨日もそうだったが、ジャングルへ向けて一般道を何本も作ったのでしょう。湿地帯が多かったと思う。昨日もそうだったが、一直線の道の両側は湿地帯というより、水溜りの連続でそれがつながってしまっているという姿だ。昨日の道は両側に蟻塚があったが、今日の道の両側は民家それも農家だと思う。道がパレンバンと同じで、湿地帯より1mほど高くなっている。民家から道までは多分平均で15mくらいある。その間が水溜りになっているので、手作りの橋がかかっている。パレンバンのムシからの両岸の家とまったく同じだ。
IMG_4851.JPGその家の裏側は広大な田園や畑になっている。イリアンの人々はどちらかというと、槍や弓をもっている狩猟民族でジャングルの中で生活していたが、その人たちは、政府の援助を受けて、一直線の道をジャングルの中に引いて、その両側のジャングルの木も切ってしまって、広大な土地を作りだして、移民に農業を奨励した。インドネシアでは有名な、スハルト政権の移民政策でした。ジャワ島からの人口分散と未開の島の開拓とイスラム教の土地の拡張を狙った巧妙な手段でした。

いま、パプア、ジャパプラやマルク、アンボンなどで頻繁に原住民と移民(クリスチャンとモスレム)との争いが起きているのです。カリマンタン、スワウェジでも同じことです。モスレムが後からはいいてきてモシジッドを作って、スピーカーでお祈りの大声をジャングルに響かせられては、今までいた人たちにとっては大迷惑だったし、その後も移民がどんどんやってきて、クリスチャンが住める場所が狭まってきて当然不満が爆発し、パプアやチムールのように独立運動が盛んになることは当然の気持ちの表現だと思う。この国境近くのジャングルまでも移民が送り込まれたと思うと、コモド島にコモドしかいなかったのに、ジャワ島からイスラム教徒が移住してきて、モスレムを作ってスピーカーからお祈りをながして、コモドをびっくりされたのと、イリアン原住民がびっくりしたのと似たような気がする。
といことで、その土地に無かった農場を移民が担うようになり。原住民にも米やとうもろこしを売るようになり、次第にイリアン人も森から出てきて街に住むようになり、街で商売をする人は移民と原住民が半々に見える。ムラウケやその周辺に限っては、争うは表面に出ていないが、ムスレムの増築や改修、新築現場を多く見るがカソリックの教会のそういう姿が見えないのは、何かあるなと、思わされる。
私が使った28歳の運転所はスラバヤからの移民の三世だとか、祖父母や両親は郊外で農業をしていると言っていた。

今日もジャヤプラヤスンタニでイリアンジャヤ原住民が槍や弓矢をもって、部落同士の争う姿がテレビで流されていた。何世代にも繋がる争うだと思う。スハルトさんの政策が原因です。
IMG_4851@.JPGインドネシアでは珍しい橋の作り。
IMG_4851^.JPG博多―対馬定期便と書いてありますが、わかるでしょうか。
  

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