(^_-)-☆技術指導の評価 [押出成形]

 1900 私がこの仕事に関わって、48年、最初の半年だけ、与えられた装置(西ドイツ、シュレーダーシュタインデルマン、ライヘンホイザーからの装置を導入いたという記憶がある)を使いこなすために、先輩達がやっている仕事を覚えようとした。教えてもらいながら、覚えながら、その状況は不満だらけだった。製品がうまくできていなかった。不良品の山だった。装置に大きな不満が生じた。なんとかしなければならないと思った。
半年後からは、関わる仕事のすべてを、私の考えと腕で、した。装置の大改善に手をつけた。誰からも指導を受けなかったし、参考にする文献もなかった。ただし、技術以外のことに関いて、ただ一人、先輩(上司)の中に、仕事に対する取り組みが非常に熱心な方がいた。三年ほど、その人の姿、姿勢を参考にした。塩崎さんという、自衛隊習志野空挺部隊出身の猛者だった。“空の神兵“を、一緒によく歌った。それと同時に他の人に対する、技術指導をする立場になった。それ以来、ずっと、技術開発とそれにともなく技術指導の連続が私の仕事です。自分が作ったものを自分が作り続けることないのだから、誰かに、それを覚えてもらって、生産をしてもらわなければならないのだから、当たり前のようにそういていた。

66ナイロンの二硫化モリブデン10%入りの馬蹄形をすぼめたような形のベルトコンベアーの鎖が滑るラインのガイドレールという製品を日本で初めて作った。66ナイロンのチューブや異形品(プロファイル)の生産は、日本での草分だった。そのすぐ後、6ナイロンのプロファイルも手掛けることになった。まだ、誰も出来ないこと、出来るかできないか、返事に迷うことは、やると返事をするという、姿勢が確立された。

さて、技術指導を何十年も続けてきて、私のような考え方をする人を育てることが、最大の目標というか,希望だった。今もそれをしている途中だ。

難しいのは、伝える相手次第だということで、私と同じような人に伝える情況は、無いわけで、自分が満足出来ていないし、伝え具合を評価する人が、私の技術を分からないわけだから、評価できないのだが、評価するのだから、十分だと評価する筈がない。48年、日本人一人、インドネシア人一人の合計二人しか、私の跡継ぎになれるという人に会えなかった。そして、その日本人は、この世にいない。
IMG_5103.JPGIMG_5105.JPG
静岡駅北口前の様子、お世話になった交番、この右がタクシー乗り場、芝桜と徳川家康像、鷹刈りスタイル、駿府公園の中に有ったものをここに何時からか移設したらしい。
IMG_5108.JPG
妻の作品、家の中の桜が咲き始めた。
 

タグ:評価 無理 相手
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

Facebook コメント

トラックバック 0