(^_-)-☆グラハチカラン [生活]

 2517 場所は、ドライポートを左に見て通り過ぎ、北に向かう、ルマーアバンの踏切の手前300mくらいのところの左にある、引っ越し先を探しに今日もちょっと出かけた。グラハチカランの守衛を訪ねた。私の顔を見るなり、太田さん、とすぐに分かってくれた。1997~2006年、クラウンコートに半年いた後、ここに住みだし、パニック障害で、一時、仕事どころではなくなった時まで、約11年、ここに、住んでいた。そのうち、7年、マリアさんと一緒だった。ゴルフ場は近いし、近所の人たちとも直ぐ親しくなったし、何より、当時は、この一角に、50人以上の日本人が住んでいた。結局、ピークガ2004年で、その跡は、出てく一方、新しく入る人は一人もいなかった。ただし、私の住んでいた、一番、ゲートに近い、部屋の直ぐ斜め下に、ブカシバラントの警察本部長の家族が入居してきた。この人と親しくなり、よく食事に招待されていた。そして、最後は私とマリアさんとその家族だけになり、私も出てしまって、残ったのは、その家族だけだった。

そして、今日、先ほど、近所に手ごろな借家がないか、会ったら紹介してほしいと頼みに行った。すると、守衛が、まだ、ユディさんがいるから、知らせてくる言って、バイクで奥へ行ったしまった。直ぐに戻ってきて、今は出かけていないが、お手伝いさんが会いたいと言っているから来てほしいと言ってきた。早速、奥のほうに行くと、その人が家にお前に出て待っていてくれた。ここの二階が開いているから、いつでも、入っていいよと、部屋を指差した。“高いでしょ、私は家賃2ジュタ以下を探している”というと、何日か待ってほしいという、今週いっぱい待つことにした。粉の守衛に守られた一角でなく、外の一般的な分譲住宅地に中でいい。その人、一年36ジュタでよければ、ここを、ユディさんに言って、住めるようにしてやってもいいという。それなら、それでも、いいから、今週中に返事を下さいと言って、その場を離れた。

ここの人、6人ほどに接触したが、全員が、マリアさん、今どうしてる?と聞いてきた。彼女は、デルタモスの住宅に私と一緒に2008年まで、住んでいたが、ブリタール、彼女の故郷に帰って、結婚し、今は小学生の子供が二人いる、と、説明した。チャンティックだったね、彼女は、と、みなさん、言う。偶にメールが送られてくる、遊びに来てと。
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許可を得て、写真を撮った。私たちが住んでいた部屋である。大変懐かしい、奥のほうが荒廃してしまっているが、前に列の建物は、まだ、健全そうに見えた。月、3ジュタなら、ここの戻ろうかなと思った。

私が出た後、プレシデント ユニフェスタス(プレシデント大学)のオーストライア人教授が二年ほど住んでいたという。そのほかに、外国人は入居しないで今までになっているという。私も今から借りたら、短くて一年、長くて三年かなと思う。
 

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