(^_-)-☆最終日 [思うこと]

 2926 グラハタマン最終日、今回は一年だった。1997年 20年前に入った時には、新築で、20ルピアが1円の時で、5ジュタRp(10万円)だった。今もあると思うが、ブカシ バラットの“フィラ ドゥワ ラトゥス”に多くの日本人が生活していて、そのオーナーが、ルマーアバンに立てたものでした。そのつながりで、多くの日本人はここにも住み着いた。一杯にはならなかったが、50人以上の日本人がいた。日本食をメインにしたレストランもあった。朝食時には、各部屋から日本人がぞろぞろ出てきて、30年程度の椅子は、ほとんど塞がっていた。日本からの輸入食料などが並べられたミニマートもあった。カラオケまであった。



しかし、矢張り、街が遠く、今もそうだが、完全なローカル町の中、一人で、出歩ける雰囲気の場所ではなかった。隔離状態を皆さん、感じたと思う。いわゆる、閉じこもり雰囲気になっていたと思う。自分の車を買って、自分で運転していたので、私にはそれはなかった。中には、ノイローゼ気味になった人もいた。悩みをよく聞かされた。



1998年、大暴動の時がピークだったと思う。ほとんどの人は国外に脱出して、戻った時には、ここには戻らなかった。一挙に半減した。今より、遥かに田舎のインドネシア人ばかりの周囲では、危険を感じる人もいたでしょう。それから、減る一方で、帰国をする人がいれば、その会社の交代要員はここには入らなかった。



2005年。会社を変わった時に」会社が借りた住宅に移ったが、その一年以上前からは、日本人は私一人になっていた。オーストラリア人のユニフェスタス プレシデントの教授がいて、インドネシア人でブカシ警察の副所長家族がいただけだった。その内、セキュリティーの研修所のようなものが入った。



私は、会社がジャバベカ2になったので、タマンセントサから此処に移った。家賃は3ジュタ(2万5千円ほど)20年前とは大幅な安さだ。それなりに、お湯が出ないとか、隙間が多いとか、老朽化の症状が一杯だ。エアコンも各部屋一台で四台ついていたが、今回は、使えるのは寝室の一台だけになってしまっていた。そして、最後の最後まで、蚊の大群との戦いでした。もう一つ、WiFiの電波が弱い。

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ここからのゴルフの出発も最終でした。
 
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