(^_-)-☆寂しい話 [思い出]

 1603 昔々、私が高校三年の頃、所得倍増論をだみ声でぶち上げた首相がいた。10年で国民の所得を倍以上にするというのだ。その時からというより、その数年前から日本の景気は、放っておいても、良くなっていった。そのあと、私が大学に入ったが、当時、国立大学の工学部へ入りさえすれば、なにも勉強しなくても、就職には困らない、引っ張りだこだと言われていた。事実、先輩連中は、大企業、一流の上場企業に、就職していった。そういう先輩から、就職してからの情報が入ってくる、アメリカやイギリスへ出張で行ったとか、ボーナスで車を買ったとか、景気に言話ばかりだった。ところが、私に一年先輩の就職状況に陰りが見え始めていた。東京オリンピックが終った直後から、極端な不況になってしまったらしかった。わたしが三年の終わりころには。求人がばったりとだえてしまった。四年になってから、大企業は求人ゼロ、中小企業からは、今がチャンスとばかり、求人が舞い込んで来ていた。その頃の就職活動は、ほとんど、教授、助教授などの先生方が、何社かのコネを持っていて、持ちつ持たれつの間柄だったので、紹介してくれる会社の中から選ぶというやり方だった、特に就職活動はしないのが普通だったが、私の時には、その対象が、中小企業になってしまった。

就職先は先生の紹介だった、東レ、極東貿易、臼井国際が出資した創業二年目の会社だった。静岡の清水町柿田だったので、遠いが同じ静岡だから、いいかと思ってお世話になることに決めた。大卒新卒の第一号だった。

就職二年後、労働組合(組合員は100人弱)の副組合長、三年目から、組合長を務めた。副の時から、団体交渉の主役は私だった。初任給は2万4千円、国立大学工学部卒の標準的な金額だった。高卒で1万5千円くらいだったと思う。

就職当時の不景気は、二年ほどで回復方向に向かった、それからは、何とか景気が次々と繰り返された。所得倍増論から五,六年後である。会社の売上も毎年30~50%増えていった。団体交渉は、言いたい放題、労働協約の改定では、10項目以上要求した、ベースアップも30%以上を要求した。二年目の月給は3万でした。三年目の賃上げ交渉では、何と、平均8400円で妥結した。私の給料は4万円になった。四年目には5万円以上になっていて、倍増どころか、それを上回った。当時1千ドル(36万円)カーと言われた、パブリカを月賦で買った。

 毎週土日12時間の休日出勤、会社の中にあった寮に住んでいたので、四、五年は、会社とべったり、当時、土曜は休みではなかったが、土曜日の夜8時から日曜の朝8時、日曜の夜8時から月曜朝8時まで休日出勤、月曜日は年休を取るか、そのまま、うつらうつらしながら仕事をした。だから、月給の倍ほどの給料をもらっていた。五年目頃、27歳の頃には、残業、休日出勤を含めて10万円以上になっていた。

 7年過ぎに会社を辞めたが、自分で開業する準備をする期間、1年半は、ある会社の12時間、夜勤専門を務めた。結婚していたが、月給は20万円だった。
 30歳で会社の経営者になったが、1年も過ぎないうちに月商200万円を超えて、利益は100万円を超えるようになっていた。もっとも、それらのほとんど、設備増に使った。
 どうですか、当時は、脱サラという流行語が有ったくらいで、大体、何をやっても儲かる時代になっていた。

 アベノミクス?ですって、10年後には、150万円所得増だって?それに対する具体策が無いって?大変ですね、1年で15万円でしょ、年金支給が70歳からという、案が浮上しようとする世の中、年15万円増は出来ないでしょう?30年40年前と比べると、寂しい話ですね。

 機関投資家が円売りとドル買い、そして、株を買って株価を上げた。約半年後、一般投資家が、手を出し始めた。高値で買った一般投資家は、機関投資家の利食い売りによって、下がってしまった株を抱え込まされてしまった。輸出主体の大企業と機関投資家が美味しいところを待ってゆくのがアベノミクスでしょう。円高、株安に急反転、時代が違う、流れが違う、変化するのは20年後でしょう。
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 家の前、朝と夜、風船売りが毎朝来る、向かい側にトカン オジュック(バイクタクシー)のたまり場がある。
  

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