(^_-)-☆手伝いの末 [体験]

 1692 私がインドネシアへいた目的は、インドネシア人に私が持っている技術を伝えることと、仕事への取り組み方を伝えることと、従業員との接し方の手本を見せることでした。それを達成するためには、勿論、その場所が必要だったが、その場所(会社)への収益に関する手伝いは、二の次だったし、仕事を出してくれる客先も必要だったが、その会社の収益に関する貢献も二の次だった。
しかし、それらのことは、セットになっていることで、その会社がその仕事をすることによって、利益的に足を引っ張るわけにはいかないし、客先は、当然、あらゆる点で、輸入品よりメリット多くなければならない。少なくとも、押出し部門を赤字にするわけにはいかない、場所を提供してくれた会社に迷惑を掛けるわけにはいかない。

インドネシアへ来た当初から、幸いにも、その機会には恵まれていたと思う。最初の会社のKでは、射出部門が主で仕事は全部、本社は生産していたものをそのまま持って来ていた。価格も、本社が買い取るのだから、本社が決めていた。しかし、押出し部門については、日本の或る会社から購入していた製品があったが、政策上、それを直ぐにインドネシアの自分の会社からというわけにはいかなかったらしい。本社が躊躇していたのを、原料も新巣津する時からその製品を作るために原料も購入して装置と一緒に送ってあったので、強引に作って製品を送ってしまった。その時の価格は運賃を含めても、日本国内の会社から買っている価格の0.6倍だった。毎月500万円で買っていたものを300万円で収めた。そして、その価格で売っても、その製品の利益は100万円残った。要するに連結で300万円の利益を毎月、与えたのです。その製品は日本では、どこの会社も扱っていなかったので、価格競争は全くなかった。本社は、大きな利益を受けたことになった。
もうそれだけで、利益的には、充分だと思っていたが、その仕事だけでは、技術を伝えることにならない。また、幸いにも、車のシートやヘッドレストを作る会社から、布を縫い付けてセットをするためのフックやトリムという製品の注文が入ったり、シャンプーや化粧品のボトルの上に付くポンプを作っている会社から、ポンプの下に付くチューブの注文が入ったりして、1年も過ぎないうちに、毎月300万円の利益を与えることができるようになっていた。その会社には、約、5年いたが、その時には、毎月、私の試算では、500万円の利益だった。
しかし、相変わらず本社からの仕事だけで、インドネシア国内では注文を取れない射出部門を良く見せようとする、本社の人も、インドネシアの社長も射出の担当者も、それが、気に入らない。だから、会社の計算法は、別でした。規模が5分の1もない押出し部門に固定費の半分を負わせて、射出部門の利益を上げるようにして、押出しは、ほとんど、利益を上げていないと、いうことにしていたのでした。給料など従業員の評価も押出し部門の人は射出の人より冷遇されていた。

サラリーマンの世界は、こういうものか、と、インドネシアで始めて実感した。押出し部門も新しい仕事を取れなくなり、数少ない、取った新しい仕事の価格は原料価格そのもので見積もりを出してしまってあったというおまけまであって、その会社は、撤退することになり、引き受け先を紹介するなど、その会社から離れて数年後には、その手伝いをすることになった。ということで撤退までその会社の手伝いをした。
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夏の我が家の庭
  

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