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 2485 子供が小学校卒業時期に合わせて、長泉の田舎から、家族で静岡に引っ越そうと考え、先ず、敷地が50坪ほどの丸子の中古住宅を手に入れた。家の前は100坪ほどだったが田んぼが、まだ残っていた。1982年、私も40歳前、静岡に引っ越した。子供は近くの中学校、妻は、先ず、どこだったか、静岡市の北の方の麻機(あさばた)小学校だったと思う。一時期、ちょっとここを離れたが、直ぐ戻って、現在に至っている。

お互いに、それぞれで忙しかったが、別に不満がなかった。転居も多かったが、それはそれで、発展的だったと思っていた。夏の家族3人の旅は恒例だった。海外にも多く出かけた。娘が小学校に入ったころから、国内旅行、山陰地方、北海道や沖縄、星の砂の与論島、そして、“坂の上の雲“の松山地方など、4年の時に、初めて海外へ、香港、広州、桂林、次の年は、シンガポールだったか、その次は、スイス2年連続、山歩き、その次が北欧三国とデンマーク、それから、モスクワ、ポーランド、東ドイツ、この年の10月に壁が崩壊した。直前のブランデンブルク門やポイントチャーリーを東西から見た。家族3人で自由行動、毎年の夏が楽しみだった。二人にとっても、良い思い出になったと思う。こういうことが、娘がその後、ヨーロッパ滞在のツアーコンダクターになった要因の一つだったと思う。ブロンズの髪の孫がいる遠因にもなっている。

バブルの真っただ中、仕事は求めなくても入ってきた。値下げなど言ってくる客先は一軒もない。儲かってしょうがない時期でした。しかし、私は、リクルートという雑誌に、将来の社長募集というコピーで広告を出した。1983年には、大卒工学部を出た人を3人入社させ、条件は、この3人の内、誰かを10年後に社長にする。と宣言した。その後も仕事は増える一方、貸し工場から自前の工場に移った。それが、今の場所である。それでも、パートの女性約20人を含めて、全員で30名の規模だった。毎年、社員海外旅行を敢行した。スキーや食事会を全額補助で、希望者で実施した。大崩海岸の松風閣で忘年会も恒例だった。

家の方はというと、妻も中堅の教師、子供は、高校、大学(東京に下宿)と進学、波風なしの安定期、中古住宅を新築に立て替えた。土地も目の前にあった田んぼを購入し、150坪くらいになった。土地建物の名義は妻と半々にした。妻もそれなりの収入があったので、何の問題もなかった。それが、今の家である。既に築25年になるが、未だに、そう、古くは見えない。ここが、“終の棲家”になるだろう。100坪の庭の3分の1は妻の趣味の家庭菜園にしている。趣味だが、上手ではないと思う。出来あがった野菜は、食べさせられるが、姿形は今イチだし、味もいまイチ、近所の人も配られても、困ってしまうのではないかと思う。偶に学校の子供が収穫を手伝いに来て、持って帰って行った。今でも、続けている。さつま芋、ジャガイモは、保存してあるので、いつ帰っても、それを食べさせられる。庭の次郎柿は、私が楽しみ、熟柿が大好き。石和から送ってくる山梨のコロ柿が好きだ。

娘は、長泉町の田舎から、静岡市に移動し、東京の青山へ、そして、ヨーロッパへと家から遠くなっていた、そして、今は、孫と静岡の家にいることが多くなった。
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毎年恒例のプラスチック、ゴムの国際見本市の広告、18~21NOVジャカルタ クマヨランの見本市会場です。最初に二回ほど出かけたが、ずっと、いっていない。押出は、日本も同じだが、出展が極端に少ないから、行く意味がないし、こちらが教えてやりたいくらいで、私が得るものは何もない。
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ジャカルタ方面のヘイズ、太陽が赤くぼやけている。
 

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 2484 労働組合の仕事の中で、雇用促進住宅制度を使って、社宅を建てもらった。2年後、社宅の入居者、第一号で、建ったばかりの社宅に入った。会社の敷地内だったので、妻の学校は遠くなってしまった。保育園も変わった。私がほとんど、子供の送り迎えをするようになった。近所の世話好きの、奥さんに面倒を見ていただくこともあった。社宅に入ったのが1号なら、出てしまったのも1号でした。結婚して、二年半後には、20年ローンで2300万円の分譲住宅を購入、そちらに移ってしまった。長泉北小学校の丘の下でした。
仕事は、日本にはまだないという製品を次々に完成したし、その頃初めて登場した樹脂を色々な製品を試すこともした。原料メーカーから、日本で新しく売り出そうとする樹脂で、どんな製品ができるか、丸棒や板やチューブを作ってみてほしいという依頼が次々と入ってきていたのです。今では聞かない、GL樹脂や名前は忘れたが水に溶ける樹脂、PA11,12,などなどでした。EVAやPA6,10それにガラス繊維や炭素繊維で強化した樹脂も、だった。いたずらで、PAとPCを混ぜて真珠のような光沢の板も作ってみた。今で言う、アロイです。当時は、その言葉は無かった。
公私ともに充実とはこのことか、そして、幸い、日本にいる間、ずっと、何もかも上手くいきすぎていたと、今になって、思う。体力的に良く持つなと言われたり、凄い努力だな、と、いってくれる人が多かったが、自信は、努力をしていなかったし、体力もあまり使っているとは思っていなかった。流れるままに行動していた。

その長泉北小学校に子供が入学した。学校まで丘を上って5分くらいの近い場所、妻の学校もその学校の時があって、随分、家庭での忙しさは少なくなった。ただし、授業参観や運動会など学校の行事には私が参加した。卒業式も私でした。
 結婚して、三年足らずの時に会社を止めた、そして、資金稼ぎのために、夜勤専門12時間(18時から6時)の仕事を1年半やった。フジプラ精工でした。給料は当時、破格の月20万円稼いだ。その時期は、案外、家の仕事の分担は、上手くいった。子供の送り迎えは。全面的に私がした。
そして、沼津の志下シゲという干物の産地の真っただ中の50坪の貸し工場で太田化工という会社を立ち上げた。それからが、また、順調過ぎて大変、仕事は増えるし、納品時間を含めて、朝、6時前には家を出て、家に帰って来るのは12時を回っていることが多かった。最初は1ラインからだったが、3年後には3ラインになっていた。装置の償却を特別50%にしても、月600万円売りあげて、200万円の利益だった。それは、それでいいのだが、沼津の工場は狭くなってしまったので、どこか新工場をと考えていた時に、親がいる静岡にもそろそろ、戻らなければならないと思うようになっていた。そして、用宗港の脇の貸し工場に本社工場を移した。子供が小学校の5年になったころでした。私は、1日おきに、車で通勤、安西と下長窪、交互に寝泊りした。沼津の仕事はそのままに、静岡で新しい仕事も増やした。東プラ時代に手伝った北川工業や南部化成、地元の葵プラスチックなど直接取引も始まった。東京や名古屋の電材屋さんからも頼まれた。V0-PPやVO-PAのプロファイルは、日本で初めてだったと思う。

 私と入ったばかりの男性とパートのおばさん3人で2ラインを稼働していた。ある日、30m/分で引っ張っていた製品のベルトに左の親。人指し、中指を挟まれた、隙間は2mmほど、慌てて、引っ張ってしまった。親指の爪がついている部分が千切れてしまった。左手を頭に載せて運転して近くの外科医に飛び込んだ。直ぐに、離れた指先を縫い付けて貰った。爪を取って縫ったので、しっかり、爪があった側を間違いないように練ってほしいと頼んだ。二週間ほどして、ちゃんと、上から爪が出てきた。人指し、中指も裂けた場所を10針ほど縫って閉じた。

入院して一週間ほど点滴をしなさいと言われたが、三日ほど、点滴に通うという条件で入院しなかった。包帯をぐるグル巻きにしながら、休まず仕事をした。しかし、何日間は痛かった。痛くて眠れない日もあった。包帯は水浸し、通院で、医者に叱られた、膿んでも知らないよと。そのための点滴でしょ、と、言い返した。十日後には、抜糸、その後は、仕事に差し支えるので包帯もしなかった。私は、その方が、直りが早いと思っていた。妻は呆れるばかり。
この人がいたから、独立開業ができたし、静岡に通うこともできた。お陰さまでというところでしょうか。
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カリマラン川沿いの道、ジャラン カリマランからの名物景色、ゴミの焼却とテンパッ マンディ(トイレ兼水浴場)です。車の免許証発行所の近くでもこんな様子です。


バリ島、ウングラライ空港閉鎖
10月25日に噴火したリンジャニ山の火口湖の中のバルジャリとい山(リンジャニの子供)、活発な活動が続いている。バリ ロンボック バニュワンギの空港が閉鎖されている。バリに行く予定の方は現地の情報に注意ですね。
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http://island.geocities.jp/enpla_indonesia/pageo407.html
http://island.geocities.jp/enpla_indonesia/page0406.html
Gunung Barujari dengan ketinggian 2.296 - 2376 meter dari permukaan laut (mdpl) dan berada di sisi timur kaldera Gunung Rinjani, meletus hari ini sekitar pukul 10.45 WITA, dan hingga saat ini masih mengeluarkan asap dan debu dalam skala kecil.
Diperkirakan, hingga Kamis 5 November ada 3 bandara yang masih ditutup akibat erupsi anak Gunung Rinjani. "Sehingga diperkirakan sampai besok pagi ada 3 Bandara ditutup yaitu Ngurah Rai Bali, Selaparang Lombok (bukan Lombok Praya), dan Banyuwangi," tutup Brata.
こちらは東ジャワの6月から8月にかけてのラウンという山の噴火の事です。この時もこの辺りの空港が閉鎖された。現在の閉鎖は、こちらが原因ではない。ブロモ山も関係なし。
Badan Nasional Penanggulangan Bencana (BNPB) menyebutkan aktivitas vulkanik Gunung Raung di Jawa Timur sudah semakin menurun sejak beberapa hari terakhir.

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 2483 文化の日 日本国憲法が公布された日でした。戦前は明治節 明治天の誕生日でした。日本国憲法に施行日を5月1日にしようとしたが、メーデーなので、施行の日としてはまずいと考え、5月3日とした。憲法記念日になった。その半年前の11月3日を公布日とした。明治節と重なって休日だったので、文化の日ということにした。5月5日の施行にしたいという説もあったが、端午の節句だったので、中間の3日にしたらしい。

ですが、私の誕生日は2日、その日は、まだ、明治節の一日前、なぜ、私の誕生日を一日遅らせて、明治天皇と同じ3日で届けなかったのか、子供の頃、両親に不満を言ったことがあった。その時は、文化の日にしなかったのかと,言った。父親は、お前の誕生日の次の日が必ず休みになるからいいだろう、と言っていた。私は、休みの日になり、文化の日、生まれが、自分にふさわしいと思っていたからだ。

5月1日メーデーが、施行日にまずいということは分かるが、2日にしなかったのだろうか。そうすれば、明治節と公布日が重ならなかったのに。
http://otaenplaext.net/newpage89.html

静岡県東部の長泉町という所に、フジプラ精工の塩崎さんが世話をしてくれた借家で新婚生活をスタートさせた。この人は、横浜の学校まで通った。毎朝、毎晩三島駅まで送り迎え、日曜日に農協のスーパーに一週間分の食料品や菓子類を買い出しに行く、当時は、まだ、共稼ぎという夫婦はそういなかった。大きなカート一杯に一週間分買う人は私達しかいなかった時代でした。1週間分で4000円でした。私たちの給料は合計8万円くらいでした。家賃が2万円、結構、スタートから余裕がある生活ではあったが、時間的には厳しかった。
この人、翌年の三月まで、横浜の学校に通ったが、その年の夏に、静岡の教員採用試験を受け、合格し、4月から、地元の長泉南小へ赴任した。夏の採用試験の時には静岡の県庁まで行って、面接試験を受けた、既に,大きなお腹を抱えてだった。私が当然、送り迎え付添いでした。良く、うかったなと思った。横浜の小学校の校長先生からの強力なコネがあったからだと思う。その後もこの先生とはずっとお付き合いがあった。

子供が生まれたばかりの3月末には、学校勤務がはじまった。私も仕事が忙しい、3交替から抜け出して、押出部門のトップになっていたので、出張も多くなっていたし、早く帰ってしまうわけにもいかなくなっていた。それでも、近所の家に子供を預けたり、静岡の私の実家に預けたり、あちこち、たらい回しにして、生まれたばかりの子供も面喰らったと思う。

1.5才になって、保育園にお世話になることにした。交替で送り迎えをしたが、時には、夜、遅くまで、迎えに行けなくて、暗くなって迎えに行くと、保母さんと娘が二人きりで、出口付近の階段で座って外を眺めている様子が見えた。私を見つけると駆け足で、飛びついてきた。3才から幼稚園に。

家事は分業、洗濯、掃除は私、台所関係は妻、子供に関しては交互に、といった具合。これは、静岡に引っ越すまで続いた。金銭の負担は、食料品や日用品など現金支払いは妻が負担、支払いが通帳から自動でできる物は、全部、私が負担、これは、現在でも続いている。日本にほとんどいない今でも、私の通帳から引き落とされている。地方税、所得税、年金、新聞もガスも電気も妻の固定資産税も、である。完全分業、そして、自立です。負担を掛けない、頼らない。私がサラリーマンを止めて独立開業した時にも、その気持ちだったが、私が余りにも忙しかったので、家にいる時間が極端に少なくなった。3年間ほどは、私は妻に近所付き合いなどで大きな負担を掛けたと思う。
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チカランバラット、ゲート付近、また、また、大規模なショッピングモールなどの多目的ビルの建設工事が始まっている。地下二階、まではありそうに、掘りこんでいる。
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再び、フライオーバーの橋脚と向こうのバイク一時預かりの建物。
 

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 2482 そして、私の誕生日、おじいちゃんは、72になったよ。還暦+一周ですね。もう一周できるでしょうか。という年齢ですね。インドネシア人で一人だけ、SMSを送ってくれた人がいる。ブリタールのマリアさんからでした。彼女の中に、まだ、私は生きていたようだ。会社の連中に言うと面倒なことになるので、いわない。

この人は、私の妻です。
その内、この人の一番上の太平醸造に勤めていたお兄さんが、出張で横浜に来た時に彼女の下宿に泊るといって来ていて、初対面の挨拶をした。また、お父さんが、沼津の知り合いの娘さんの結婚式に招かれてくいるとうので、私と会ってみたいといい、その結婚式が終わったころ、会場で挨拶をした。学生時代に、お互いに顔を合わせたことがあって、私は覚えていたが、お父さんの方は、全く、覚えていなかった。酒を飲めない私は麦茶だったが、お父さんは、大酒のみ、手酌で、やっていた。その数年後、肝臓を患って、亡くなってしまった。

秋にはブドウの収穫、ブドウ狩りのシーズンが終わって、ブドウ棚に残っているブドウは、ブドウ酒用に纏めて出荷してしまう、その手伝いを毎年するようになった。

正式に結婚の申し込みはしていないが、私もこの人も結婚する流れに乗っていると意識していて、付き合いながら、周囲の人達に紹介するようになっていた。この人の学校の同僚や校長とも会ったし、私の会社のクリスマスパーティーにも来てくれて、私の上司や同僚にも紹介したし、静岡の私の家にも来て、私の両親にも会ってもらった。その内、この人の大学の先生や私の研究室の先生にも紹介しあった。自然の流れだった。何の障害もなかった。

1969年2月1日 26才、この方が25才、静岡駅前のクーポール結婚会館で結婚式、披露宴だった。この会館、オープンして間もないころだったと思う。仲人は、私の大学時代の恩人で、日科技連、日本の品質管理の草分け的存在で有名な赤尾洋二先生(当時梨大助教授)ご夫妻にお願いした。非常に短期間でしたが、先生から受けた影響は大きい。卒業直前に受けた言葉、“不良の山を見たら、宝の山と思いなさい“この言葉は、その後、肝に銘じていると共に、多くの人に言っている。

余談だが、卒業間際に赤尾先生と茨城県の水戸へ行ったことがあった。偕楽園で、二人で食事をしたことは、私の人生の途中の重要なポイントになっている。丁度、梅の季節だったが、涙ぐんでいて、全く、梅の事は、楽しめなかった。
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Matikan Lampu Besar Jika Melewati Pos Securitiセキュリティーポスを通る時は大きいランプを消して下さい。
Tamu 1×24jam wajib Lapor訪問者は24時間報告の義務がある。
Wajib Tertib Lalu-Lintas交通規則を守る義務がある。
Bebas Dari Miras &Narkobaアルコールと麻薬禁止。
Bebas Dari Perbuatan Asusila悪いことはしない。
Maksimun Kecepatan 30KM/Jam最高速度30km
http://otaenplaext.net/newpage89.html
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Selera Resto食欲レストランAyam Bakar Goreng 焼き鳥揚げ物Penyet Pedas Gila強烈に辛い


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 2481 孫の眞弓さん、誕生日。おめでとう、間違いでなければ、9才になったのかなあ。何才になっておめでとうと言った時、歳を間違えて叱られたことがあった。ドッジボール大会で優勝した、私は6人に当てた、と、声を弾ませていた。おじいちゃん、明日、誕生日おめでとうとも。

卒業間際になって、二年、三年後輩の何人かから、付き合ってほしいという手紙は貰ったことがあったが、それらはお断りした。卒業をした時には、同級生や後輩の女性、他の何人かと繋がりがあって、連絡し合っていたが、特に、こちらから、交際を求めるような人はいなかった。皆さん、親しい間柄ということだったと思う。半年後の大学祭の時に同じクラブの仲間と集まる機会があって、近況を話す程度だった。そして、この時に学内で、この人を遠くから見かけた。そして、遠くのまま、得しゃく程度の挨拶をした。私は例の友人と一緒だったが、彼も同じような、挨拶だけで、この人の方に行こうとはしなかった。そして、この人は視界からいなくなった。そんなことで、友人に聞いたら、もう、大学の時に彼女とは、付き合いを止めたという。

それから、翌年、この人が卒業した年の暮れに、愛宕山の実家に手紙を送った。会ってほしいと。その返事の中で、横浜の小学校に勤務していて、横浜に住んでいることを知った。そして、会ってもいいというので、その何日か後の日曜日にマリンタワーで待ち合わせた。先ず、聞いたことは、誰か、付き合っている人はいるか、でした。いないという、私の友人とは、何もないという。それなら、暫く、僕と付き合ってほしいと頼んで、良いですよという返事を貰った。後に、この方のお姉さんや妹さんから、この時に、私のことを、いい人だと言っていたと、聞かされた。大学の時のつかの間の共同作業が、印象に残っていたのかなと思う。

卓球部の一年先輩で、IHIに就職し、カナダに二年ほど赴任するという人がいて、その人から、丁度、車の免許を取ったことを知らせた時に、使っているルノーを、向こうに行っている間、しばらく使ってほしいと頼まれた。これ幸い、早速、練馬の家まで受け取りに行って、その帰る途中、横浜のこの方の下宿によって、これからは、この車で来るからと、宣言した。

それから、押しかけデートが始まった。仕事は忙しく、毎週ほとんど、土日の夜勤12時間をしていた。月曜日に年休を取って休んだ。その内の月に一度か二度、昼まで寝て、2時ごろ、清水町柿田(湧水で有名な柿田川に近く)の独身寮から出発、箱根を越えて、小田原を通り、横浜の東神奈川に向かった、5時ごろには下宿に到着、その前で、車を止めて、中で居眠りをしていると、6時過ぎに、この人に起こされる。部屋に入って、食事をして、たわいない話をして、8時過ぎに、そこを出る。
下宿の前の路肩で駐車している不審な車を見て、近所の人が、気になったのでしょう。何をしているのか、聞かれたことがあった。私の説明に、笑いながら、納得してもらった。逆コースで寮に戻るのが、11時過ぎ、翌朝、元気に仕事。若かった。元気でした。何回、通ったでしょうか、数えていない。

勿論、土日が休める日もあって、その時は、朝から出かけて行って、八景園や山下公園界隈、港の見える丘公園、外人墓地辺り、当時はまだ、さびれていた中華街、伊勢佐木町、桜木町辺りも歩いた。磯子のこの人の学校へも行ったことがあった。みなと未来やランドマークタワーなどはまだない。
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蓮と火炎樹。
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プレミウム リッター7400Rp約65円、いつも25万Rpと言って、給油する。


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 2480 この人と初対面は、大学3年の前半だった。この人は、例の昇仙峡へ男二人でいった私の友人と親しくしていた。私は、この人の友人で石和のブドウ園の娘さんと、同じクラブでもあったので親しくしていた。それぞれ、一年後輩だった。はっきり、自分で青春だなと、意識していたころでした。勉強は適当に、家庭教師やアルバイトやクラブ活動やマージャンやスキーやスケートに明け暮れていた。その仲間には多くの学芸学部の男性も女性もいた。大学構内を移動する事が多かった、化学薬品で穴だらけの汚れた白衣をまとって、次々とすれ違う女性と挨拶をしながら、闊歩していた。その人の事を意識することはなくなっていた。もう、住む場所が違っていた。

学生時代には色々なことがありすぎて、何を書いていいか分からないくらいだ。二つだけ、その一、オリンピックの入場券の売り出しが始まっていた、夏休み、7月初め、例の友人と甲府の南の方にあったアイスクリーム製造工場に包装の夜勤のアルバイトに行っていた。ある日、夜勤開けの帰る途中、岡島デパートの外の宝くじを売る場所で行列が出来ているので、何かなと聞いたら、オリンピックの入場券の売り出しの日で、8時から売り出すという。その時6時半だった。じゃ、一緒に買おう、ということになって行列の後ろについた。友人、お金を持っていないという、私は千円持っていて、陸上競技の一番安い500円を二枚かって、例のブドウ園の子を誘うつもりだった。かれは、下宿へ行って、お金をもってくると言って、その場を離れた。しばらくして、戻ってきた。自分たちの番になった。私は国立競技場の第三コーナーの一番上に近い、一番安い、500円を二枚買った。彼、お金を無くしたと言い出した。ポケットに入れてきたはずのお金をどこかに落としてしまったらしい。がっくり、彼は、この人を誘って、四人で行くつもりにしていたから、私も大ショックでした。

結局、付き合っていたそれぞれの女性にこの話はしないで、私は彼を誘って、また、男二人だけで、東京オリンピックの見物に行くことになった。依田さんの80m障害レースを対角の一番遠い所から見た。それでも、深く記憶にのこる出来事だった。

その二、学友会と言って、大学の部活動を仕切る、役目をする機関があった。なんとなく、その幹部の人から後輩を指名して引き継ぐのが習慣になっていた。私は卓球部のキャップテンをしていて、指名された、そして、この人は、合唱部の幹事をやっていて指名された。学園祭や体育祭を仕切ったり、大学から出る補助金の配分を任せられたり、何か所かある掲示版の掲示物の管理をしていた。この人と話をする機会が多くなった。休日に集まるって打ち合わせやビラやポスターを作るなどの共同作業をすることもあった。この人は、家からおにぎりやサンドイッチなどの差し入れを用意して来てくれた。愛宕山の中腹のブドウ園の娘ということも知った。ブドウ液やブドウは当たり前のように、沢山、持ってきてくれた。ブドウの収穫時期には、何人かで手伝いにもいっていて、家の人から大歓迎を受けた。リックサック一杯のブドウを下宿に持って帰って、飢えている後輩に配った。私が付き合っていた石和の子より、友人が付き合っている、この人の方がいいなと思ってしまった。
もっとも、このブドウ園、卓球部や個人で気が向いた時のランニングで、愛宕山の中腹のレストハウスまで行っていた。その山道の途中にあって、金網フェンスの外から手を伸ばせば、摘まめる場所にブドウがなっていて、摘まみながら走っていた。手伝いに行った時に、“梨大の学生さん、ブドウを摘まむなら、房で持っていってくれればいいのに、沢山の房からちょっとずつ、摘まんで行くので、売れなくなる房が多くなって困る“と、言っていた。私だけでなく、摘まんで行くのは梨大性ということは、知っているのでした。そののちは、後輩に、一房だけ、頂くようにと、注意した。

そして、このブドウ園、何年か後に、何年間の間、収穫時期には、二三日、泊って、手伝いをするようになる。
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午前中人仕事でチビトゥンへ行ってきた。その道沿いにある小学校の正門わきの火炎樹、日本の小学校の桜の木のような、印象だ。
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ゴルフ場の火炎樹も今が一番盛り。マンガの実もどんどん大きくなっている。雨季が遅れている。
 

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 2477 妻や従業員人には、40才の時に50になったら、社長を止めて、どこか海外にいって技術指導をすると宣言してあった。そして、今年、4月に、妻や会長には、来年2月で、インドネシアの仕事はお仕舞いにすると伝えた。いずれも、意志がぐらつかないように、だった。しかし、その他、その人を含めた友人にも、取引先にも、銀行など関係者にも、一言も言っていなかった。言ってしまって、実現しなかったら、恰好が悪いと思ったからだ。そして、ぴったり50の年末一杯で社長を止めて、単なる顧問になった。その時に初めて、皆さん、なぜやめたのか、今後何をしたいのか、機会ある毎に説明をした。中には、太田化工で何かあったんじゃないの、大丈夫?と心配した人もあった。慌てて偵察に来る商社もあった。
会社は、順調そのもの、何の心配もない。突然、赤字に転落したとしても、数年は、借金をしなくても済む蓄えは充分あった。私も直ぐにいなくなるわけでもないので、経営者交替は突然だったかもしれないが、移行期間は充分あった。

その人のことだが、実際には社長を止めてから約2年半後に日本から出たのだから、少しずつ、離れて行く、そして、いつ戻るか分からない私をかなり意識していてくれたようだった。ボランティア的な仕事を多くするようになっていったようだった。自分が身体障害者(私はそう思っていないが)なのに、身体障害者の世話をするようになっていた。

ほとんど、すべてを、振り払って、突き放して、単身、日本から脱出なのだから、私が日本にいなくなれば、その人の行動を助ける人が一人、少なくなる。精神的にかなり負担だったと思う。そして、その日が来て、黙って、赴任してしまった。

妻や会長には4月に伝えてあったが、今日、先ほど、コミサリスに、私の来年の行動希望を伝えた。ビザが切れる二月に、延長はしない。要するに、インドネシアでの仕事はお仕舞にする。ただし、リタイアビザを個人的に取る。主な生活の場は、日本になる。やっと、踏ん切りがついた。この決心が変わらないように、ここに書いた。

生きていれば、色々なことがある。完全なる変化ではないが、また、次の何回か目の違った人生がある。

スマトラ、リアウ州に大雨が降ったそうだ。森林火災も下火になったらしい。
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家に戻ったら、停電をしていた。21;00過ぎに回復した。PCの画面は会長が、バリのニルワナ(しつこいようですが天国という意味です)ゴルフ、7番 ブルーティ 海越えのショートホール、向こうに、有名が観光スポット、タナロットが見えます。引き潮の時には、子供が大勢下にいて、ボールが降ってくるのを待っている。会長、お気に入りの写真です。実は、海に落としたのでした。白から打つ人も、このホールだけは、青から打ってみてください。2月に仕事を止めると伝えたのは、この方です。
http://otaenplaext.net/newpage0.html私のウェブサイトの表紙は、タナロットですが、向こうに、この7番のティーグラウンドが見える。
http://otaenplaext.net/newpage46.html
http://otaenplaext.net/newpage47.html
http://island.geocities.jp/enpla_indonesia/newpage0302.html


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 2476 その人は、活動的な人だとは分かっていたが、ママさんバレーや水泳や卓球の大会に、良く出かけているそうで、その人の地区の、ママさん仲間ではリーダー的な存在だということが、話からわかる。なるほど、な、その人ならと思う。息子が、また、目だった存在らしく、陸上中長距離では、県で上位だという。その息子、それから二三年後に、高校の私の後輩になった。三千障害でインターハイにでた。ところが、二年の時に、中退して、アメリカのソルトレークシティへ行ってしまった。その人、息子を誇りに思っているが、かなり、拍子抜けで、寂しそうだった。その息子、日本に帰って来た時に二か月余り滞在し、資金稼ぎのために、私の会社でアルバイトをさせてやった。親からの援助は受けたくないというのだ。破格の時間給で、彼を使ってやった。母の中途半端な幼馴染だし、高校の大先輩の私の生き方について、興味があったようで、彼から、根掘り葉掘り質問を受けた覚えがある。その息子、アメリカ人と結婚して、アトランタに住みついてしまった。今はどうしているのか。

その人とは、何回かの同級会、そして、同級会をする幹事になる人がいなくて、同級会を開けないクラスの人から、同学年会をやってほしいという話があり、それではと、二人で、それを引き受けた。私達が、という理由は、1組と2組から、幹事役をしましょう、でした。11クラス、600人、名簿をかき集めて、静岡の中心地の会場を予約し、開催した。クラス平均、25人で約300人の出席、恩師は11人全員、見えられた。皆さんに、大変喜んでもらった。その後、もう一回、5年後に、本当は3,4組担当なのに、確か、結局、私たちも協力した。その後は、どうなったか聞いていない。同級会も5年毎ということで、インドネシアに来てしまってから、一度戻った時に開いた。その人と最後に会ったのは、その時で、2003年だったと思う。流れでカラオケに行った。その時に、インドネシアでよく歌っていた、広瀬香美“Dear-again”を歌った。

日本から離れる前、何年間か、その人とは、良く、スキーに出かけた。私はスキー仲間が何人かいて、毎年その人たちと数回、会社の連中とも二三回、出かけていた。その中に必ずその人が含まれるようになった。“私をスキーに連れて行って“の頃でした。八方、志賀には頻繁に行っていた。お気に入りはジャイアントだった。草津、湯沢、赤倉、斑尾などにも出かけていた。インドネシアに出発する年の春まで続いた。

その期間中、その人にアクシデントがあった。確か、乗鞍だったと思う。その人、スキー中に突然、胸が苦しい、と、座り込んでしまった。中間にある休憩所で休んだ。なかなか、苦しいのが直らなかった。大丈夫だから、あなた達は滑ってきて、というので、一時間ほど、その場を離れて滑って、戻った時には、もう、治ったという。しかし、気になるので、滑って車までもどって、その日は帰った。そういうことが、その次の時にもあった。病院へ行って検査をしてこいよ、と勧め、やっと本人その気なって、検査した。不整脈で、このままでは、スキーに行けなくなるどころか、危ない、直ぐに、ペースメーカーを入れた。直ぐに決心して良かったと思う。一級の身体障害者だそうだ。その後も、スキーは続けた。もう、気持ちが悪くなって坐り込むことは無くなったし、お陰で、その人が一緒だと、高速代が半額になった。変な制度だと思った。こんな元気で、どこも悪く見えない、心臓発作で亡くなる確率は、ゼロに近い。普通の人より強い心臓がより強固になったのだから。どこが、一級身体障害者だよ、と、思った。

それはそれとして、中途半端な幼馴染というか、気心が知れた友人の一人として、子離れの手伝いに一役かっていた感じだった。良い間柄だと思っていた。
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Jalan tikus ジャラン ティクス、ネズミの道、近道、抜け道の事です。国道からチビトゥンのゲートに向かう大通りが大渋滞している時でも、ここは、空いている。大型は進入できない。コカコーラの西側にある。
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軟質塩ビチューブ用の引取機とカッター、来週から稼働する。
  

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(^_-)-☆その人に [人]

 2475 大学を卒業したら、皆さん、お待ちかねだったと思っていた同級会を開くことにしていた。そんな時に、ばったり、同じバスでその人と会ってしまったのでした。その約、一か月後、5月だった。静岡のある喫茶店で、待ち合わせて、現状を話し始めた。その人、会社は止めた、結婚するためだった。職場結婚だという。9月何日に結婚式だという。あなたは、どうしてる?というので、就職をして沼津の方に住みだした。そして、決まっていたわけではないが、結婚を前提に付き合っている人はいて、これから、資金を蓄えなければならない、と、そんな話をした。かなりのショックだった。大学を卒業し、自立できる資金ができたら、その人に心境を打ち明けようと、心の一部で思っていたからだった。そのあと、同級会を一月にするつもりだが、その人に手伝いを頼めなかった。“15年後、皆さんの生活が落ち着いたころに次の同級会をする” と約束もした。他に何を話したか覚えていない、一時間ほど一緒にいて、“幸せにね”といって、別れた。後ろ姿を見送った。その人は振り返らなかった。9月何日、その日は会社で休日出勤をしながら、その人の幸せそうな結婚式を想像していた。56人中40人以上集まったが、全てが、まだ結婚していない人でした。その一月の同級会にその人は現れなかった。

それから、15年後 37歳、当然、皆さん、結婚し、小学生や中学生の子供もいて、家庭の事、仕事のことも、落ち着いて安定時期に入っているころだ。私も結婚をし、自分で仕事を始め、身の回りのことも順調に推移していた。案内状を出すために現住所を出来るだけ、知らなければならない、そこで、その人の実家に電話し、その人の苗字と電話番号を聞いた。静岡にいた。早速、電話をし、“約束した通り、同級会をするので手伝ってほしい”と頼んだ。待っていたかのように、声が弾んでいた。その声からすると、家庭や生活が順調だと感じたが、打ち合わせをしたいという。その人の方から、会いたいという気持ちが伝わってきような気がした。ちょっと、様子が違うかなとも思った。多くの人にとっては油に乗りきっっている時期だと思う。

まず、15年ぶりの再会、場所は覚えていない。目的の同級会を理由にして、二人きりで、同級会をやったようなもの、夫の事、子供のこと、私が聞いても仕方がない事ばかり、話したかったのでしょう。自分の境遇、環境を洗いざらい、話した。話す相手として、その人は、私からの連絡を待っていたように、でした。その人の中では、私は、そういう、存在になっていたのかな、と、ちょっと、複雑だった。

二人きりで会うのはそれが最期になった。女性の現住所のメモを貰って、私が二人の名前で、皆さんに案内状を送った。その半年後の同級会は先生も楽しみにしていただいたようで、30人ほど集まった。出席できなかったが、現住所が刑務所の奴もいて、かなり、中学3年1組同級生、ピンキリの人間模様になっていた。私は、会社も個人も新聞に紹介されるようになっていた。一応、太田君ならね、と言われる状態にはなっていたので、良かったと思うし、その人をがっかりさせることもなかったので、よかったと思う。

それから、約15年後、私が、インドネシアに行ってしまうことになるとは、その人、思っていなかったと思う。しかし、私は、50過ぎたら、社長を止めて、静岡の片隅から、外国、東南アジアに出ようと既に決めていて、それを実行した。その当時は妻にも話していなかった。
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チビトゥンの金型屋からの帰り、ジャラン カリマランの渋滞ぶりとジャラントールのチカランバラットの出口のガラ空きの様子 
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(^_-)-☆その人と [人]

 2474 その人も大学へ行くのかと思っていたが、就職をした。私は静岡から離れた。夏の最終の試合の時に、卒業してからも連絡先を知らせ合おうということになっていた。こんなことがあった。大学一年の秋、葡萄の季節、私が住んでいた甲府に行ってみたいという話になり、友達と一緒に、その日、何時の列車に乗って行く、駅まで迎えに行くという約束がった。
 その列車の到着を友人と二人で、ホームで待った。しかし、その列車に乗っていなかった。朝9時頃だった。次の列車が到着するまで、一時間以上ある。約束の列車に乗っていなかったということは、もう、来ないと判断してしまった。今なら、携帯で連絡をするが、当時は、連絡しようがなかった。友人の手前、彼も行ったことがない、その人が来たら一緒に行こうと思っていた昇仙峡へ2人だけで行ってしまった。全く、面白くない二人のブラブラ散策だった。彼には気の毒なことをしたと思っていたし、彼も、私の傷心を分かっていた。
夕方、下宿に戻ると、おばさんから、私を訪ねてきた人がいたよ。直ぐに、どこかへ行ってしまったが、という。ショック、その夜、その人が家に戻っただろうと思う時間に下宿の電話を借りて掛けてみた。

友人が遅れてきて、その列車に乗れなかった、次の列車で行ったが、あなたがいなかったので、住所の下宿を訪ねてみたが、そこにもいなかった。大学辺りと神社と街を歩いて、静岡にもどったという。

その年の暮れ、静岡で会って、その時の事を謝るとともに、何かの映画を一緒に見た。オリオン座(とっくになくなっているが、当時は洋画の封切館)だった。ジョージキャキリスとチャールトンへストンが出ていたことを覚えているが、映画の内容は上の空だった。それを最後に、その人と会うことはなくなったし、手紙のやり取りも、なんとなく、しなくなった。私の方は、身近なことで、かなり、忙しくなっていたし、その人の事を思う瞬間はほとんど無くなっていた。意識をしなくなった。
大学生活を謳歌した。クラブ活動や研究を自由な雰囲気の中で、充分にやったと思う。多くの友人、学芸学部との付き合いでは、多くの交際も生まれた。

その人も、多分、身の回りの事で、充実しているだろうと、思う。それぞれの世界があった。私に方は、卒業する時までには、何人かの学校の先生候補者の女性と知り合うようになり、スキーやスケートに一緒に出かけたり、家庭訪問をしたり、その家(ブドウ園の娘が多かった)の手伝いをしたり、付き合いも多かった。将来を語り合ったりもした。私を慕ってくれる後輩も何人かいた。

そして、静岡の東部にある会社に就職が決まった。そして、機会を見て、その人に同級会をするための手伝いを頼もうかなと思っていた。
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蓮の花、ピンクは昼前に閉じてしまうが、白っぽい方は、閉じない事を、最近知った。
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会社の押出しラインがやっと4ラインになった。そのための準備を休日の今日、した。
   

Pergi Untuk Kembari” Elloの歌です。数年前に大ヒットした歌ですが、その20年以上前の他の人が歌っていたのを聞いたことがあった。これも、私に心境に似ていたと思った。しばらく、どこかへ行ってくるよ、また、会いましょう。といった内容です。
https://www.youtube.com/watch?v=4M9AC5cbhg4&list=RD4M9AC5cbhg4#t=62
Walaupun langit pada malam itu Bermandikan cahaya bintang Bulanpun bersinar betapa indahya Namun menambah kepedihan oh
 Ku akan pergi meninggalkan dirimu Menyusuri liku hidupku Janganlah kau bimbang dan janganlah kau ragu Berikan senyuman padaku
 Selamat tinggal kasih Sampai kita jumpa lagi Aku pergi takkan lama Hanya sekejap saja Ku akan kembali lagi Asalkan engkau tetap menanti

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