(^_-)-☆気変わり [人生]

 2088 夕方から、今の夜中まで外がうるさい。大音量で、だみ声の大きな声の歌と太鼓の音と共に、何度も何度も町内の道を行ったり来たりしている。子供がそのあとを大きな声で叫びながら続く、それだけではない。車がクラクションを鳴らしたり、救急車でしょうかパトカーでしょうか、サイレンも鳴らしている。イドル アドゥハ(ハリ クルバン、犠牲祭)の前夜祭でしょう。

難しい局面にまた陥ってしまった。スムーズにいかないものです。買い手は、今の場所にお世話になることはできるだけ短い期間にするために、準備を進め、間もなく、出て行ける時になって、問題が起きた。お互いに冷静に、信頼し合って対応していただきたいと思う。11日に移動ができるでしょうか。
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ボックスのトラックは、全部日本製と言っていい。それも、ほとんどが、日本からの中古車だ。そして、全てに日本語で、安全運転宣言や積載量とか、制限速度とか、排気ガス規制クリアー車などの書いてある。会社の名前もそのままに、消してない。
 インドネシア国産のトラックは、ヒノとミツビシ、ヒノの黄緑色の車体の方が目立つ。優勢だと思う、ヒノのバスもよく見かける。トラック、バスともベンツ製もたまに見かける。
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それにしても、インドネシアのトラックの積載量オーバーと高く積むことと、高い部分はトラックの幅より両側に広げて、逆三角形型に積んでいる車は多いし、その上に人間が乗っている。それが、あたち前の風景です。
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カリマラン川に掛かる沈下橋。ほとんどがこんな感じの橋です。両側の土手道から下がっている。
  

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(^_-)-☆道筋 [人生]

 2083 スマランからエンダンさんがやってきた。自分が投資し、経営し、開業をするのです。金を出さない、技術もない、それなのに、儲けたい、そんな人ではないので、私は手伝いたい。事業譲渡の条件の最終確認と仮調印が目的と聞いていた。朝から、期待して、待っていた。飛行機が遅れて、結局15;00に会社に見えた。運命の日でした。調印は終わった。再スタートの始まりである。これを四か月前に、エンダンさんがやって来た時に、やっていれば、何事もなかったし、損もなかった。伸ばしてなにも良いことはなかった。
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一応、気分は、こんな感じ。
長い一日でした。一昨日の目眩の原因だろうと思われる部分の一部が剥がれた。ただし、まだまだ、懸案は残るし、今まで、やる気が起きるわけが無くてやらなかったことが沢山ある。それらに、早速、取りかかろうと思う。環境を変えることが何よりも優先だったので、多くのことを犠牲にしたし、絶えもした。この解放感は格別だ。そして、気の毒な人達への、このことの始末は、来年初めまで保留をする。それまで、持つのかどうか、皆さん、THRを待っている。

仕事に関しては留まっては、いられない。また、金型の注文をした。修正を繰り返し、形状はできたが傷が多いので、新しく修正した形に作るしか無くなった。来月の22日が納期になっている製品の色合わせもしなければならないし、在庫で残っている原料も、出て行く前に、製品にして、出荷してしまわなければならない。やることが一杯あるが、私は、10日にエポの予定、しばらく、離れなければならない。
  

タグ:快報 解放 快方
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(^_-)-☆新展開 [人生]

 2043 仕事の難しさに相当振り回されていて頭が痛い日が多くあるのに、その他にもいろいろあって、悩ましい日々が続いているので、この辺りで、決断をした方がいいと思い、自から、新展開を仕掛けた。多分、一か月以内に、道は開くと予想する。

一か月前にLEDチューブランプのPCカバー用に原料、1トンを購入した。約65万円だ。そして、明日、フルエルチューブ用の原料を購入する。たった、300kgだが、66万円である。また、今月末には、別のPCカバー用の原料、0,5トンと光の拡散、透過率調整用のナチュラルを0.5トン購入をする、77万円である。PVCやPPやPEなど一般汎用樹脂なら1トンで25万円くらいだ。

原料が高いからといって、原料の倍とか3倍とかのような売値にはならないので、高い原料を使う方が利益率は下がる。そして、一般的に高い原料ほど、成形が難しいし、原料入手も難しい。その上、原料は少し筒しか使わないので、原料在庫が多くなり、財産が多いわりに現金が少なくなってしまう。技術的な難しさの前に多くの難しさをクリアできなければ、私が手掛けるような仕事はできない。要するに、自分である程度、投資を先行できる環境を持っている会社でしか、利益を生み出すことはできない。

そういう意味で、いくら、私が製品を作る能力を持っていても、その能力を利用できる会社、人物出なければ、利益を上げることはできない。私が利益を上げてやるのではない。
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Tutup pintuドアを閉める Pasang sabuk シートベルトを締める Nyalakan AC エアコンをONにする Cek bensin ガソリンチェック Nyalakan radio ラジオをONにする Kunci pintu ドアロックする Cek spion サイドミラーをチェックする。
 どうです、質問は何かわかりますか。エンジンを掛ける前にする事ですね。
ちなみにspionというのは、スパイ、探偵などの意味です。バックミラーは一般的にはkaca spionといいます。Lubang spionは、覗き穴です。
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ponselとはHP携帯電話です。
Nyalakan MatikanはON,OFFです。Matiは死ですね。kanを付けると他動詞になります。


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(^_-)-☆庭の雑草 [人生]

 1973 もう、どうにもならない。別に私は、構わないのだが、放っておいてはまずいかなと思う。家には、ほとんど、夜しかいないし、お手伝いさんもいないし、寝たきりに近い状態の老人の一人暮らしの家の庭というところでしょうか、もし、日本なら、近所の方々が見るに見かねて、ボランティアで草刈りをしてくれるかもしれない。インドネシアは、ネズミや蛇や虫や蚊の格好の住処になっていても、そんなところは幾らでもあるから、近所の人も、気にしないかもしれない。それより、近所の家のゴミの悪臭や散らかり状態の方が、私にとっては、よっぽど、不快だ。

インドネシアのこの辺りでは、20万Rpで、草刈りを頼むことが出来ます。しかし、綺麗さっぱりという分けにはならないし、1か月もすれば、この状態になってしまいます。刈ったばかりの雰囲気は三日ほどだけです。1週間もすれば、10cmくらいに伸びる。例えば、根こそぎ地面をひっくり返して、根っこをほとんど取ったつもりでも、10日ほど、草が生え始まるのが遅れるだけです。大家さんが見るに見かねて、草刈りをしましょうかと言ってくれるが、頼むなら、自分で頼んだ方が安いので、それは断っている。 
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夕方、早めに会社から出て、モールリッポの東通路にある園芸店で、除草剤を買って来た。配合等,使い方を教えもらって、裏庭、表庭の一部に試しに散布した。一週間ぐらい、遅くても10日後には、ほとんど、枯れてしまうと言っていた。そのつもりでいた矢先、大雨が降ってきた。だめじゃん、これでは。という心境。明日の朝、もう一度、散布してみよう。

ついでに、この店で、ドリアンの木について聞いてみた。ここには10種以上のドリアンが置いてあるという、マーレーシア、ブキッティンギ、バンコクなどだそうだ。値段もかなり違うらしい。1mくらいの高さで幹は15mmくらいの木は10万Rpで約4年後に実がなるそうだ。1年後になる、もっと、大きな木は、値段が4倍するそうだ。1年後になる木を買ってもようかなといったら,それは無理だよ。どこに住んでるときかれ、答えたら,そこなら、2mの立方体の土を掘り出して、赤土に変えて、リンや窒素等の肥料を適量与えなければならないから、無理でしょう。良心的だなと感心した。マンガやパパヤなら多分、どこでも大丈夫だが、肥料はしっかり与えないと、実の大きさや量が変わってくるといわれ、今回は,何も買わなかった。
裏庭にマンガの木があるが、大きい木なのに、時期に数個しかならない。それも、美味しくない。

http://nanbuindonesia.web.fc2.com/page238.html
http://otaenplaext.net/newpage33.html
これは、パンガンダランの私の庭のようなもの、チャガール アラムで出会ったラフレシア パトゥマです。こんな花がタマンセントサの家の庭にもあれば、お金を掛けてでも、すっきりした雰囲気にするでしょう。

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(^_-)-☆打ち納め [人生]

 1811 大晦日にふさわしい?話。平均年齢、多分、74歳。4×74で296歳、31日で、どうですか、こんな高齢者メンバーでゴルフをしたことが有りますか、キャディ抜きのセルフで、ですよ。先ず、スコアーが出たら目というか、多くするならいいが、一打二打少なくいう。77歳の会長の宣言で、グリーンに乗ったら、自動竿ということになっていた。4オン2パットの6の時に、その前に、竿だなと言いながらパットし、外し、2パットで終わっているのに、本人は、「4オン1パットの5、ポイントはなし」だと言っている。全く、つじつまの合わない事を何気なく言っている。私が「2パットだから、ポイントがないでしょ」と指摘すると、考え込んでしまって、数え直す風をするが、どうも納得いかないまま、6だねという。私が、間違っているかのようで、妙な気持になる。そういうことは、その人一人だけでは無いから、困る。

セルフなので、何本かのクラブを持って歩く、そして、使ったクラブ以外のクラブをコース途中に置き忘れたままにする。グリーン上に着いた時には、パターやPやSなども一緒に持っている。パットが終わって次のホールへ向かう時に、パター以外のクラブをグリーンエッジに置き忘れてしまう。次のホールのPやSを使う時になって、それに気が付く。それも、お互いに注意しようと言ってあるが、繰り返す。

「前のグループのプレーが遅い、」「打ち終わって歩きだすのが遅い」「カートから降りて他の人が打つのを待っている、突っ立てないで、自分のボールの所に早く行けよ」などと文句を言う。私から見れば、自分のことだろう、と言いたい。本当に遅い、私は前のプレーが遅くて待つのではなく、とにかく、仲間のプレーを待つ時間が長い。寒い中、震えながら、鼻水をながしながら、日向を求めながら、待つ。

コースの途中のフェアウェーに、不思議なことに、私たちのボール以外に落ちていることが多い、一個でなく二個の時もある。隣のコースから、打ちこまれたものなら、捜しに来るはずなのにその気配なし、近くにドライビングレンジが有るわけでもない、どこからか飛んできたとは思いにくい、不思議だ。考えられることは、通過したグループの人が落としていった。OBと判断し、暫定球を打って、OBではなかった人が、そのボールを拾うのを忘れた。隣のコールから打ちこんだ人が、面倒で捜しに来ないで、適当にロストと決め込んでプレーを続けている。などしか考えられない。私がボールを4個拾った。
ティーグランドにティーが置きっぱなしになっているなどは、当たり前。私はティーを6本拾った。

自分のボールがどこへ飛んで行ったのか見ていない。カートを止める位置が、ボールの位置より相当前に行ってしまっているのに、全く気なしない、私は、カートに乗らないで歩くことにしているが、私の方が遥かに早く進む、皆さんのボールの位置を私が確認して、カートの人に知らせるが、耳が遠いのか、風向きの関係か、私の叫び声が伝わりにくい、上に、目も白内障がどうのこうのと言っていて、病院はどこが言いなどという話をしているので、こりゃだめだと、思うしかない。

留めは、この人達、私も含めて、「もう、認知症になりかけている人がゴルフを大勢やっているんだよな」「本人は、そのことに気が付いていないから、アルツハイマーだよな」「自分が、遅いという自覚ないから、しょうがないよな」と、言っている。

皆さんのスコアーやポイントを付ける時も、何度も聞き直す、私は毎回多声でそれらを言って聞かせているが、必ず、どなたかが、皆さんに聞き直している。それも、一回ではだめなようで、聞き直す。オリンピックの計算も、私が纏めて計算をしてやろうとするが、効かない。一人ひとりが誰にいくつ負けた勝ったとやるので、紛らわしいし、お釣りも複雑になる、皆さんが、何度もお互いにポイントを聞き直す。回っている途中でしつこく聞いて付けていたポイントは一体何だったのかと思う。どうせ聞くのなら、人のポイントを書かないで、自分のポイントだけしっかり点けておけばいいじゃない、と、思う。

打ち初めを1月3日に同じメンバーで回る事になっている。その日はキャディーが付くと確認したので、ストレスは少ないでしょう。

どうですか、年寄りのゴルフは、若い人には想像がつかないでしょう。大晦日にふさわしい話だったでしょ。

年越しそばをすすりながら、妻や孫たちと紅白を見ているうちに、孫たちは私の側で眠ってしまった。私としては、仕事では今一だったが、総じて平和な年だったともう。
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昼食にこんな仕出し弁当が付いて、今日のプレー費1万4千円でした。
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静岡富士山空港へ離陸、着陸の飛行機が頻繁に通過する。
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二人揃って、フェアーウェーバンカーで、手こずっている。
 

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(^_-)-☆貴重な一日 2 [人生]

 1801 二日連続で、お寺の坊さんと話をすることになった。また、親戚の人たちと久しぶりに会う機会があった。その雰囲気は、全く異なった。昨日は和尚さんが87歳、親戚の私の義理の兄弟の平均年齢が亡くなった長男84歳を除いても、77歳、男では私が一番下。控室では、完全に聞き役、それに話が繰り返し、次に、皆さんが集まる時には、残念ながら、私以外のこの中のどなたかが亡くなった時だと思いながら聞いていた。そういうものだから、いちいち、悲しんだり、嘆いたりしても仕方がない、とにかく、再会する時まで元気でいて欲しいと言うしかなかった。雰囲気に明るさを持ち込もことは出来なかった。

本日は太田家の方、母親の三回忌、富士川町の菩提寺へ10時集合、本当に身内だけ、和気あいあい、普段は、何かないと集まらないので、母親が集まる機会を作ってくれたと思っている。昨日と違って、快晴に恵まれ、父親が無くなった時に私が作ったお墓の前で、7回忌には、また。この全員が揃ってこれるといいね、などと、話をしたが、確立として、一番早く欠けるのは、私だと思う。そんな、一族というか、私との血縁者の集まりだった。今のところ、一番下は、0歳、アメリカ在住、今日は来ることができなかった。現在、日本にいる中で一番下は、4歳の男の子、そんな具合に、平均年齢は、35歳くらいだと思う。その皆といると、気を使わないし、おじさん。おじさんと言ってくれるし、身内だなと思う。楽しい。
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太田家のお墓の前から富士山、菩提寺の駐車場から富士山、愛鷹(あしたか)山、眼下に富士川と一号線の橋、ずっと、右は、河口側と駿河湾、この直ぐ下に私が小学生の頃、毎夏休み、泊りに来たおじさんの家(端のたもとの太田石材店)が有り、そこを拠点に、従兄連中と川で泳いだり、山に入って昆虫採集をしたり、夏ミカンを収穫したり、思う存分、遊びまわった場所だった。そして、この地に父母を送り返し、そう遠くない時期に私もこの地に帰る。皆とワイワイ話をしながら、こんなことを考えていた。家族や身内を考える一日だった。

昨日は、こんなことは全く考えなかった。それに、インドネシアで一人暮らしをしている時も、全く、考えない。だから、日常は全く考えないことを、この二日間、考えさせられた。また、考えない世界に戻る。
  

タグ:次は 家族 身内
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(^_-)-☆貴重な一日 [人生]

 1800 葬式に参加した。山梨の甲府、妻の一番上の兄さんが亡くなった。84歳だそうだ。大腸癌が全身に転移していて、分かってから2カ月足らずで亡くなったそうだ。何時に何処出を確かめず、妻が4時に出発と言うので、そうした。妻と娘と孫二人一緒で5人の旅、7:15に到着してから、妻は08;45から告別式が始まるという。それが分かっていれば05:30ころ出発していればよかった、と、文句を言ったが仕方がない。この余った時間が幸いをした。先ず、武田神社へ、ここ、何年振りだろうか、色々な建物が増えていた。トイレも綺麗になっていた。何十回とここへは来ていたし、その向かって左となりの相川小学校、小学校の6年の時に、海の子山の子交流で、夏に、この小学校の当時、教頭の子供が私の家に泊まり、海へ一緒にいった、秋には、私がこの学校の裏手にある塚原部落というところの、その子の家に泊めてもらって、昇仙峡などに行ったりした。懐かしの場所だ、大学を選んだのは、その縁も無関係では無かった。それから6年後、山梨大学に入って、すぐに、その家を訪ね、大歓迎された。
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♪うすむらさあきの ふじだなの しいたでうたあった アベマリア♪武田神社から山梨大学に寄った。車を止める所が無かったので、藤棚直ぐ下の大学のコンビニの駐車場に止めた。多分、もう、冬休みだろうし、朝早いので、客はほとんどなく、6~7台しか止められないが一台も駐車していなかった。直ぐ上の藤棚には、その駐車場からコンビニの上の入り口の前を通ってゆくことができた。私が居たころは、その今の階段の丁度下に石の階段があって、その階段で、クラス全員の写真を撮ったし、校内を移動する時にはその階段を上り下りした。そして、その藤棚は今も、全く、様子が変わらず残っていた。孫に「おばあちゃんとここで、友達も一緒に、話をしたよ」と言ったら、「ここで好きになったの?」という、「そうだよ、もし、おばあちゃんとここで会っていなければ、あなた達のお母さんも、この世にいなかったし、あなた達も勿論、影も形もなかったよ」といってやった。「良かったね、ここで会って、だから、私たちが居るんだね、ここへもこれたんだね」と、上の子が言ってくれた。彼女たちが今日の事を覚えていてくれるとは思わないが、それでも、甲府へ早く着いてしまって、こういう会話ができたとこと良かったと思う。
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工学部の正門、工学部と書いてある右側の門柱のすぐ裏に藤棚がある。

時刻通りに会場に入って、後は普通の流れ、斎場へ9時ごろ向かい、斎場から11時過ぎに戻って、食事後、13;00から、葬儀、告別式、14;30頃から初七日、そこで、義理の兄弟ら甥姪と話ができた。ま、皆さん、相当な歳の人ばかり、中には、具合が悪くて来られない方もいた。誰も、言わないが、次、一人を除いて、また、会う機会が直ぐ来るのじゃないかと思う。その一人は、誰かということはないが。インドネシアに多くの時間いる私にとっては、この中に、会うのは、今日が最後になる人もいるのではないかと思う。出来るだけ全員と握手を交わしながら、手を握りながら、帰る時の挨拶をさせてもらった。
19:00過ぎに家に戻った。


タグ:葬儀 再会 記憶
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(^_-)-☆恩人の死 [人生]

 1784 悲しい!!大ショック、こんなショッキングなことは、ほとんど経験がない。インドネシアにいて、突然の日本からの訃報を聞いて、涙を流したのは三回目でした。
私の恩人の一方がお亡くなりになった。北川工業の会長、北川弘二さま。涙が止まらない。思い出は山ほどある。45年間の思い出が蘇る。昨年の暮れ、稲沢仮本社にお尋ねした時には、私が約束の13時に着いた、その時、既に、応接室で待っておられた。そして、私の仕事の話を熱心に聞いていただき、「技術者はいいな、組織など無くても、技術一本で人の手伝いができるからな」と、私を励ましてくれていた。「太田君、太田君」とその時も何度も言っていた。12年12月12日でした。北川ゴム工業の社長が39歳、私は26歳の頃、東洋プラスチック精工、柿田工場の第一応接室が初対面だったで、その時以来、ずっと、「太田君」のままだった。
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http://blogs.yahoo.co.jp/enplaind/MYBLOG/yblog.html?m=lc&p=72その日の翌日のブログです。

http://island.geocities.jp/enpla_indonesia/newpage0201.htmlエッジング、グメットを日本で初めて製品化し、商品化した事実を、私と北川会長しか証言できなくなってしまっていたが、とうとう、私一人になってしまった。日本の6ナイロンの小型異形品の溶融押出成形の幕開けでした。

毎年、平均で3回ほどお会いしていたと思う。とにかく、じっとしていな方でしたから、そう多くはお会いできない。それでも、本社を訪問する時には、他の方に会うために出かけて行って、訪問した目的に関しては担当者と2~30分で終わってから、おられれば、必ず、会っていただいた。どうも、私に、何かと、愚痴を言い安かったらしい。まだいいだろ、と言いながらいつも二時間以上私を離さなかった。その中で、一番覚えているのは、秘書として働いていた女性が亡くなってしまった時でした。少し涙ぐみながら、彼女との思い出を淡々と話をしていた。お母さんと二人暮らし、家のトイレの中で心不全になって、発見が遅れ、帰らぬ人になってしまったという。社長がどうにかなるものではないが、本当に信頼していた女性だったことが良くわかる。

インドネシアでの仕事も私が東南アジアの国に技術を伝えたいと常に話していたことから、私も一緒に行ってみないかと、誘われて行ったのが始まりでした。PT.KITADAWAを離れた時も、パニック障害になった時も、これからどうするんだと、心配してくれた。その後、お世話になることは無かったが、PT.KITAGAWAがインドネシアから撤退する際、私が作り上げた押出し部門の引受先を紹介し、移転の手伝いをした。そして、その時、私の技術を引き継いだインドネシア人スタッフは、今、PT,NANBUで、インドネシアのエンプラ押出の牽引をしている。北川社長が機会を与えてくれたのでした。そして、PT.KITAGAWAの最後の社長が営業畑の人として送られてきたが、どうにもならなくて、撤退することになり、その引受先としてNANBUを紹介し、仲介したのも私でした。そこは、今、PT.NANBUの第二工場になっている。偶に、前を通った時、寄ることもある

利益の配分というか、社会へ還元するということは、常に言っていた。多くの人に、いわゆるパトロン役をしていた。演奏会とか絵画展とか、ノーベル賞受賞者の講演などに私自身もよく出かけていた。それにも、私は影響を受けて、バブルで貯めたお金を、色々な人の援助として使ったし、技術指導の為の装置や機械を購入して多くの若者が実習しやすい環境をつくった。今もそれは継続している。そろそろ終わりだが。

ゆっくりお休みください。合掌。
  
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ジャカルタ周回有料道路の料金が上がったようですね、普通車は7000から8000Rp

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(^_-)-☆思い出ついで [人生]

 1763 私にとって、変な先輩がいた。小学校の高学年になったころから、この人の事を意識するようになった。一学年上で、児童会の役員をいつもやっていた。私の姉が卒業するときに彼が送辞を読み、姉が答辞を読んだ。その彼が卒業するときに私が送辞を読んだ。
私が中学の卓球部へ入ると彼もいた。そして、生徒会の役員もやっていた。中学は他の二つの小学校からも来ていて、私の学校からの人数は五分の一ほどしか無かったので、役員になっている小学校の先輩は彼しかいなかった。そして、もう一人、目立った三年生がいた。私に姉である。中学校へ入るなり、お前は、姉さんの弟か、M(彼)を知ってるかと、色々な先生に聞かれた。いきなり、クラス委員長をさせられ、代表委員会に出席した時、その二人が仕切っていた。
二年の一学期、彼は三年で風紀委員長をしていた。遅刻する生徒が多いので、風紀委員の先生と委員の何人かで見張っていて、始業時間を過ぎた時に一か所を除いて校門の扉を閉じ、遅刻した人に理由などを聞いて説教をしていた。そんな時、何と、風紀院長の彼、遅刻して来て、それも、こともあろうに、閉じられて、見張りが居なくなった門扉を乗り越えて入ってしまった。運悪く、校長に見つかった。先輩やるなと、思った。
身近にいたのは、実質、彼が高校を卒業するまでだったが、別の大学になっても時々顔を合わせることがあったし、社会人になってからも、卓球部のOB会で会うことがあった。その時に出る話、静岡の中部大会団体戦準決勝の時、シングル、シングル、ダブルス、シングル、シングルの5試合をする。三回負ければ、最後までやらない。私は四番手のシングル、そこまで、一番の目のシングルが一勝しただけで二敗していた。先輩は5番目のシングルだった。予定としては一番目のシングルの選手と5番目の先輩が組んだダブルスは勝つことを想定していた。だから、私は相手のエースが出てくるだろう、四番目に置かれたのでした。実際、その通り、相手はダブルスに出ていて、彼の強打で勝ったのでした。先輩、完全に私の負けを決め込んでしまった。諦めて、自分の番まで回ってこないと思ってしまった。私の試合が始まった時に先輩の姿は無くなっていた。同じ会場で女子の試合も行われていた。静岡に沢山の女学校がある、その女学生達が私(静高)の応援してくれていた。中に、中学三年の時、同級でクラス委員を一緒にやっていた子もいた。元気百倍、あれよ、あれよという間にストレートで勝ってしまった。
先輩の番である、いない!!どこへ行った?捜すと、着替え終わって、校庭で自転車を乗り回し、みんなが来るのを待っていたという。慌てて着変えて、試合をした、簡単に勝ってしまい、決勝まで行った。決勝では私まで回ってこなかった。全く、いい加減なところがある人だった。呆れて、腹を立てる気にもなれなかった。
家が近かったので、卓球の練習が終わって帰宅するときに時々、先輩の自転車に乗せてもらうこともあった。用もないのに遠回りし、わざわざ女学校のある内堀を通って帰った。

その先輩、後に静岡県の事務職のトップ、県事務局長?県の官僚のトップになっていて、びっくり、時の県知事の補佐役をしていた。県議会でも答弁などしていた。私の奥さんの移動はずっと端の方で捜すのが面倒だったが、分からないものですね、あの、人を食ったような行動をする人が、誰が推したのでしょうか、県の人事異動の新聞発表欄の一番上位に、顔写真付きで、何年間か、乗っていた。

税務署長や社会保険事務所の所長さんや中小企業何とか団体の会長さんや何とかの会社の社長さん(私もその頃、高額納税の社長さんだった)などが、そろっている卓球部のOB会で、その先輩いわく、「県や市に頼るようになったら、その仕事は止めた方がいいよ、税金の分け前を貰いに来るより、税金を納める側でなければね」ご尤もだが、県の事務長がいうことかよ。この先輩、今は静高の傍の女学校(今は共学?)の理事長をしているらしい。

今回の思い出の書き込みの最後に、インドネシアで私の技術を伝える、技術者を育てる、という目的でこちらに来ている。もう一つ、国外へ出る理由があった。ある思い出の人を振り切る必要が有った、ということを付け加えて置く。そうです、心臓ペースメーカーのあなたです。これを書きたくて三日間、思い出を書いた。
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 パンガンダランの姿。地図は正確を欠くが、概ね、合っている。
http://otaenplaext.net/newpage22.html
 

タグ:先輩 同級 後輩
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(^_-)-☆同級生の思い出 [人生]

 1761 今から65年ほど前の事だ。すごいやつがいた。中学三年の同級生、背は低かったが体はがっちりして筋肉質、静岡の浅間さん近くのペンキ屋の息子、野球部、ショートで四番、県大会で三位、本人は首位打者だった。クラスでは勉強をしないで勉強しようとしているいやつの邪魔ばかり、学級委員長が私、副が彼、クラスの人気投票で決まっていたようなもの、私も、クラスのことがしないし、勉強もしなかった。大体、私を含めて、男女とも運動部員が多いクラスで、各学科の先生が私たちのクラスで教えるのを厭がっていた。隣のクラスの国語の先生などは、本当に厭がっていて、太田、何とかしろよ、といつも言われていた。その、すごいやつは、私といつも休み時間にふざけていて、従業が始まるベルが鳴っても廊下にいて、教科の先生が階段を上ってくると、ドドドっと、クラスの中に駆け込んでいた。先生もその様子は分かっていて、あきれるばかりで、なのもいわなかった。担任の先生は、相当、ほかの先生から、色々言われていたらしかった。只一人、野球部の顧問で、体育を担当していて先生だけは、私のクラスびいきで、ああいう子供たちの方が将来、有望だと、偶には言っていてくれたらしい。
昨日の坂東、村椿の話はその中学三年の時だった。
 
ところで、なななんと、その二年後に、静岡高校が甲子園夏の大会で、準決勝で坂東の出身校の徳島商業を破り、決勝まで行ってしまった。柴田の法政二高に負けたが、その中学の時の同級生、二年生だったが、二番、セカンドで出ていた。それも、決勝戦で柴田から二本の安打を打っている。

中学の同じクラスから、私とその野球野郎ともう一人、真面目で大人しく、絵を描くのが得意な子が静岡高校に進学した。そして、一年の時、また、そいつと同じクラスにされた。というより、運動部に属していた子供のほとんどが、一つのクラスにまとめられたのでした。県下トップの進学校だが、このクラスだけは、勉強はしなくていいらか、運動で活躍してくれよという気持ちでしょう。野球部員6人、硬式テニス2人、バスケット3人、重量上げとか柔道(有名な山葵屋の息子、書道ではライバルだった)をやるやつ、全部、インターハイクラスのやつらばかり、何故か、せいぜい県大会クラスの卓球の私もこの中に入れられてしまった。私の取っては、全く不本意のことだった。勉強の実力テストが前期後期とあった。成績結果は、350人くらい全員が職員室の前の掲示板に張り出された。私たちのクラスは、ほとんど300番以下だった。

それはさておいて、二年の夏、私は卓球の大会や勉強?で時間を過ごしていて、野球の事は、興味が無かった。応援など、誘われたが、暇もないし行く気もなった。静岡の大会は、静岡きっての伝統校、ほとんど一年おきくらいの確率で甲子園へ行っていたので、今年も、優勝するだろうと思っていた。そして、優勝した。静高は出る負けの確率が高かった。今年も、前評判はパッとしないし、直ぐ帰ってくるだろうと思っていたら、一点差がほとんどで、決勝まで行ってしまった。やはり同級のピッチャーがすごかった。まさか、決勝で勝つわけがないと思っていたら、やっぱり、あっさり負けてしまった。私は甲子園にも応援に行っていない。行ったって、負け試合を見るだけだからと思っていた。

 余談だが、ある雨の日、卓球の練習をしていた体育館に、二人で、ここでピッチングの練習をさせてくれと、そのピッチャー(今でも高校野球の解説をしていると思う)と、キャッチャー(トンカツ屋の息子)がやってきた。同級で、名前も同じだった。そして、投げ始めた。何球か投げてから、私に、バッターボックスの位置に立ってほしいという。気軽のいいよ、と言いながら立った。なんと、その迫力に恐れをなして、一球だけで逃げた。速球は真ん中のストライク、それでも、自分にブっつかってくるような印象だった。コチコチの硬球、かすっただけでも痛そう。流石、甲子園、準優勝投手。

 そして、その同級生は、早稲田に行ったようだが、学生時代に彼のニュースに触れることは無かった。それから、10年後くらいだったと思う、中学の同級会をした。車の営業マンをやっていて、中学、高校の時のような、やんちゃは無くなって、地道にサラリーマンをしているようだった。彼の活躍は、同級生の誇りだった。中学の時には同級の女の子から嫌われていたが、それから、20年後くらいの同級会では、大変持てていた。

もう一人、私にとって重要な人が同じ中学三年の時の同級生にいた。私がクラスの委員長、野球野郎ともう二人の女性と三人が副委員長だった場合が多かった。それらの人たちは、その後の私の仕事や息抜きや行動に大きな影響を与えてくれたし、いろいろな機会に接触もあった。同級会や同窓会の幹事役もこれらの人たちに手伝ってもらった。
さあ、次は何時になるだろうか、インドネシアでの仕事が一段落する予定の二年後くらいか。それまで、生きているかな。
青春の貴重な思い出の一つでした。
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それから55年後、インドネシアで一人作って食べた、料理です。
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アルミのパイプに取り付けたPCカバーです。片側のアルミとのすり合わせの部分に隙間がちょっとある。これはNGです。
 

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