(^_-)-☆あれから14年1 [体験]

1216  1996年夏にインドネシアへ始めて仕事をしに来た。16年前です。それから、2年足らず、98年5月に大暴動を目の当たりに経験した。その一週間前ほどから、不穏な空気が膨らんでいった。トリサクティ大学(タマンアングレックの高速を挟んだ向かい側)の学生のデモへ水平射撃で数人の犠牲者がでたことを最大として、スハルト政権打倒のデモはインドネシア中に広がっていた。また、暴動2日前にガソリンの30%位の値上げが実施された。デモの弾圧に警察では手に負えず、軍も参加していた。その時の国防大臣がウイラント、軍の最高司令官がプラボーだった。二人とも、現在、ミニ政党の党首をしていているが、この暴動の黒幕だったという疑いは晴れていないが、当時、追及もされなかった。
 昼前、会社にいて、ジャカルタ北部で暴動が始まったというニュースが入ってきた。キャンティーンのテレビを点けっぱなしにした。タンゲラン方面とブカシ方面東西に暴動が連鎖していった。MM2100へは来なかったが、国道沿い、ブカシティムール、タンブン、チビトゥン(MM2100の高速を挟んで北側)を通りコタ チカランに15:00ごろには達した。だんだんMM2100に近づいてきて、通過する模様が伝えられた。私が当時住んでいたルマーアバンの手前で終息した。
 暴動、略奪、焼き討ち、暴行など、完全に理性がなくなった集団がやりたい放題のことをしてしまった。暴動が襲った付近の高速道路のゲートもすべて焼かれた。後で知ったが、中華系の人がターゲットにされ、残忍な暴行も各地であった。

 ジャカルタに住んでいる多くの日本人は、夕方、会社から出て、あちこちが通行止めになっていたため、翌朝にやっと家に着いたという人が多かった。
 
 日本人に対し、国外脱出勧告がだされ、翌日にはチャーター機も到着していたが、脱出希望の人数が多すぎて、さばききれない、ホテル日航集合、バスでスカルノハッタ空港に向かい、日本やシンガポールなどへ脱出する計画だが、処理しきれず、各場所で最長2日待機した人もいたという。実際には、その後、何も起きなかったのだから、私のように、休暇と思って、ゆっくりしていればよかったのですが。それぞれの会社の本社や日本政府にとっては何もしないわけにいかないから、脱出勧告を出したのですが、それにしても、危機管理というか、対策というか、手段というか、全てに、場当たり的で、計画性がなく、ただただ、慌てふためいて、うろうろしていたとしか思えなかった。私は、それに振り回されなくて正解だった。

 迅速だったのはアメリカとオーストラリアだった。翌日の朝にはハリム空港(スホイ、デモ機が飛び立った空港、東南ジャカルタ)に本国からチャーター機が到着していて、その日のうちに脱出をしていった。場所も空軍の空港だから安全だ。

スホイ関連
 一週間過ぎた。ブラックボックス(実際にはオレンジ、Flight Data Recorder)が発見され、回収された。例のブンクス(包み)は25になった。一人一包みにしてもまだ半分である。もう、後は細切れになってしまっていて、カントン(袋)と表現しているが、小さな袋で、回収するようになるでしょう。ハリムへ5袋ついたと言っていた。
 ブンクスの中身の身元が判明し始めるのは二週間後からだという。そのころには、インドネシア人の関心は失せているでしょう。
IMG_4084.JPGIMG_4083@.JPGIMG_4083.JPG
 タンブンへ行ってきたが、行きは高速を使い帰りは途中MMへ寄ったので、ジャラン ティクス(jalan tikusネズミ道)を使った。その入口と出口、バイクの通勤道路でもある。

 

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