(^_-)-☆友、来イ予定 [人]

 2073 手続きがされるかどうか気になるが、取りあえず、契約的には最終日になると思う。できるだけ早く、帰国したいが、何日かはインドネシアに留まらなければならないと思う。ただし、会社からの必要文章が提出されていない。拒否されている。
やっと、まともなスタイルの見積もりが出た。それも、私が、散々、修正をお願いして、である。四か月前にこれが出ていれば、或いは、そういう意志だけでもあれば、今頃は、相当、落ち着いた状態になっていたし、ロスも増えなかった。そして、何より、こんな、雰囲気にはなっていなかった。人というものは、分からないものです。

いつか、題名、“無知と無謀と無策“で、かなりの文章が書けると思う。今月末に、私がインドネシから一時、去る直前、ずっと以前に、一緒に仕事をした二人がインドネシアへやってくる。一日観光ガイドを頼まれた。疲れる人を相手にしている毎日なので、ちょっとしたオアシスになりそうだ。

一人は、太田化工を経営していた時、客先の営業マンだった人、その後、長く、中国の工場で、社長を任せられていたが、定年で、今は。自宅で悠々のはずが、そうもいかないらしい。その人は、押出しの営業で、よく難しい仕事を取ってきた。自分の会社ではできないので、私のところへ持ってきた。家が私と同じ町内会、静岡の安西五丁目、お互いの家が筋向い。五歳年下。和菓子屋だが、弟が継いでいた。気が良く合った。自分の会社に中にいるより、家から近い私の工場に来て、なんだかんだと、パートの奥さん方と世間話をしながら、現場を手伝っていた。彼のおかげで仕事が沢山舞い込み、バブルの全盛を謳歌していた、良き時代の良き思い出しかない。

もう一人は、その同じ会社の押出し関係、製品開発の技術者、3才年下。その会社に出かけて行っては、亡くなった田中さんの部下だった彼とも、意見を交換していた。この会社のテクノセンターに席を置いていた時には、別の事業所に彼はいたが、距離は500mくらいしか離れていなかったので、何かとお互いにお互いの職場に出入りしていた。Y社向けの“のノ字“の開発は彼の傑作だった。原料の配合、レシピは彼の自信作だった。その原料のレシピは門外不出で、インドネシアのY社のために、インドネシアでも作り始めたが、原料は日本の工場からの輸入だ。インドネシアで配合はしない。
また、全国のスーパーなどで使っている、値段や商品名を差し込むPETのハサミ板だ。これは難しい、乾燥が難しい、成形も勿論難しい、外観も非の打ちどころが無いほどクリアーになっていなければならない。
田中さんと彼との技術的ディスカスは楽しかった。
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タマンセントサの入り口までも、導入道。ここへ来ると、車やバイクと争うことをしなくて済むようになる。
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