(^_-)-☆押出成形との出会いB [押出成形]

 3623  中卒や高卒の先輩で部下の人たちに金型の解体整備組み立ての方法を教えてもらいながら、製品化の訓練をした。夜勤中、上司の直接の目が無いのでいたずらが自由にでき、一番、能力を鍛えることができたと思う。半年もしないうちに、テクニック的には皆さんを追い抜いてしまった。樹脂から出るにおい、燃やしたときのにおいと煙の様子で大体樹脂の種類は判別が付いたし、チューブなどの肉厚が何mmかも、偏肉も、見ればわたる。径も0.1mm違えばわかる。出てくる樹脂をつまめば、経験したことがない樹脂でも、温度条件が、適切かどうか判断が付く。どの成形方法が最良かも瞬時にわかるようになっていた。現有する装置を一番使いこなせるようになっていて、生産開始を私のシフトから始めることが多くなり、後のシフトに引き渡す。途中でトラブルが発生し再立ち上げができないときは、寮によく呼び出しがかかった。または、早番なら、私の出勤を待っていた。人により、向き不向きがあることも、確認した。

技術導入した装置で出きる樹脂、難しい樹脂、どうにもならない樹脂や異形品、それらに対応するように、技術開発、改善、改良も提案するようになっていた。しかし、その時の上司では、やってみろ、という許可は得られなかった。。

ただし、素材生産ラインだけは、ほとんど、勝手に、圧力調整弁に画期的な改良を加え、劇的にスピードアップとロスを少なくしたことは、入社半年後の役員快晴の労働組合の教宣部長をやらされるようにあり、労働協約改定交渉でも有効だった。この改善は、それ以上にならず、50年後の現在も同じ製造装置だそうだ。郡山工場だそうだ。インドネシアに進出すれば、私が手伝うのにね。
         
 その頃、入社して二年半、民青がはびこり始めていて、会社からも皆さんから推されて、自分も義務感と使命感があって、組合の執行委員長をやっていたこともあって、仕事は頭を使うのは当たり前だが体力勝負だと感じた。その点でも負けることは無かった。仕事も趣味のひとつになった。その気持ちは独立してから、より強く感じ、今でもその気持ちは変わらない。独立してから、本人に聞いた話ですが、その人は、会社が休みの日、機械が運転されていない日に、新しい機械の据付とかメンテとかの工事をする業者でした。私の事を「工事に入った日に、必ず、現場にあの若い人が仕事をしているけれど、あの人はどういう人?」と変に思ったとか。土日、今のインドネシアでは何も予定が無ければゴルフ場にいるように、当時は、工場の中にいた。

卓球では、卓球部など無かったが、寮に住んでいた関係で清水町の大会に引っ張り出されて、臼井国際や大東精機の卓球部の連中と個人戦で競って、準優勝まで行ったし、県の機械工業組合の東部予選でも準優勝し、県大会の東部団体メンバーと個人戦の出場資格を得た。ところが、その日、横浜でデートに行ってしまい、すっぽかし、月曜日に事務所から呼び出され、大目玉を食らったり、囲碁で株主三社の大会が伊豆長岡や稲毛温泉であり、年配者が多い中、上司から強要され、若造が一人参加して、世話役のようなことをさせられ、碁でも、負けなかった。

素材成型の丸棒以外の金型にテフロンコーティングをするようにしたのも私だった。二液性で吹き付け、煉瓦製の熱炉に入れ、一晩焼き付けをする。滑りをよくする目的だった。今でも、テフロンコーティングはしていると思う。今では、鍋やフライパンに当たり前のようにコーティングされて売られている。
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西湖いやしの里根場(ねんば)の案内板、その向こうにトイレがある、その中、手を洗う場所に書かれたインドネシア語の注意書き、“ここで、貴方は、貴方の足を洗わない“と書かれている。残念、洗ってはいけない、と書かなければならなかった。janganあるいはtidak bolehにしなければならない。トイレの左すぐ横にお祈りの場所があるので、トイレの中で足や手を洗うのです。小学校の運動場の隅の洗い場のような場所をトイレの外に作ってやるのが正解、せっかく、ハラルの食事も出しているなだから。
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