(^_-)-☆重要会談 [知識]

 2704 いつものゴルフ場がブッキングが出来ず、チカンペックに行ってきた。5;30前に家から出て、イジップの会社により、そこで仕事をしている人の車で一緒に向かった。空いている、順調に到着、07;50スタート、コースはガラガラ、早い速い、10時前に終了、3時間だった。シンガラジャのレストランに着いたのが、11時ころ、11時半にならないと、料理を出せないと言われ、仕方がないから、まった。12時過ぎには出勤、皆さんの仕事っぷりを観察しながら、少しだけ現場を手伝った。ブカプアサをいつどこにするのか、THRの計算方法や評価との関係を話した。

15時、グランド ズリGrand Zuriでスマランから見えたエンダンさんとミーティング。 サンパイ ブカ プアサまで、ヘニー君(工場長)エコさん(貸工場の持ち主、オラン バンドゥン)の四人で、何やかやと話した。とにかく、インドネシア語で、早口の会話、私が日本人だということを全く意識していないからの話し方に、ほとんど、問題なく、入り込んでいっている自分がいた。

新工場の移転について、私の考えを分かってもらい、今まで借りようとしていた面積の倍を借りることにし、狭くなれば、中二階を増やしてゆくことで納得、8月末までに、移転を完成するために、建設も急ぐので、来週水曜日以前に、レーアウトを示すことを決定した。この会話の中で、ヘニー君の賢さが分かった。彼を同行させて良かったと思う。私が言いたいことの80%以上は、彼が話すので、17時前だが、私は、私はお腹がすいたにで、勝手に、まだだけど、ブカ プアサにして食事をさせてもらいながら、聞いていた。そして、頷いていた。明日、ゴルフが終わってから、彼と話すことにした。彼に、任せてしまっていいと思うが、全て、彼にゆだねることは、彼にとって重荷になると思い、私が主な案を出すことにした。

その他、韓国企業への裏金のこと、私は初めて知ったが、前々、ダイレクターが約束してしまったことで、その経緯は、私が最初、関わった日系弱電メーカーの仕事をいていたが、その弱電メーカーのインドネシア人スタッフからに紹介で韓国企業の仕事をもらえる様になった。その条件が、韓国企業のインドネシア人に売り上げの30%(製品単価の30%)を渡す、そして、紹介した日系企業のインドネシア人と分ける、そういうことにして、受注に至った。
だから、その仕事は、やればやるほど、赤字が膨らむ、そのうえ、帳簿上も請求書が無いのに、お金が出てゆくという、税務上説明できない、ペナルティーを食らいかねない問題が有る。コミサリスは、その話を前若ダイレクターから、聞いていたが、仕事を続けていた方が良いと思い、黙認していたという。私は、その仕事が、無くなってもいいから、裏金は止めますと、宣言した。それでは、太田さんが、危ないことになるかもしれない、と、言われたが、私は、永久にこんなことを続けるわけにいかないので、やはり、止めると宣言した。新責任者、マーケティング ダイレクターとして、客先の韓国人に、挨拶に、まだ、行っていないので、挨拶に行くことも話した。

エコさん、よくしゃべる。彼に工場を見せて説明してよかったと思う、状態を理解し、面積は、今までの倍以上は必要だとエンダンさんに適切なアドバイスをしてくれたと思う。また、レーアウトで一番肝心なことは、床の状態をどうするかを決めることだと言ってくれた。コンクリートで床を覆ってしまった後で、何かを埋め込んだり、掘り返したりすることは、したくない、一番厄介なことになるから、床の状態をどうしるか最初に知りたいということだった。私がいう必要はなかった。
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6時前に、ブカ プアサを知らせる太鼓が打たれた。私以外の三人は、様々な料理や飲み物やお菓子類が並べられた場所へ行って、それぞれを持ってきて、早速、食べたり飲んだりしだした。他のホテルの滞在者も一斉に、このレストランに集合してきて、急に華やかに賑わい出した。それほど大きなホテルではないが、ブカ プアサの様子を始めてみた。イスラムにとって、欠かせない雰囲気で、生まれながらに習慣、生活の一部、これはこれで、平穏な状態なのでしょう。

おまけ、なぜ、ジャバベカ5辺り、私は住んでいる場所近くに、大規模なドライポートが出来ているのか、疑問に思っていた。エコさんの話にいると、高速道路の工事が間もなく始まるとう言う。日系企業が受注したという、第二高速道路だ。ジャワ島の北海岸に沿って、タンジュンプリオク港から、これも、日系企業が受注した、新コンテナ港(スバン)までが、工事区間だという。ジャバベカ工場団地の北を通過する、そして、私たちの新工場は、今は、ど田舎にあるが、直ぐ近く、インターチェンジができる予定だという。その、着工式が8月だという。その式にジョコウィ大統領が鍬入れに来るという。太田さん、大統領と一緒に写真を撮れるよ、などと言っていた。この話、つい、三日ほど前に決まったという。本当かどうか、私は知らない。でも、有ってもおかしくない話だ。私は、かねがね、高速鉄道より高速道路だと言っていた。そのバンドゥン人のエコさんもバンドゥンまでの高速鉄道は大赤字になるでしょう、大きな事故が起きる可能性も高いと、疑問を話していた。
  

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(^_-)-☆10周年 [知識]

 2703 先日、ゴルフ仲間と食事をしていた時に、誰かが、下痢の話をし、また目眩の話をした。太田さんは、元気だから、なにもないでしょうね。と、言われた時に。実は、と言って、先ず、過呼吸の話をした。死ぬかと何度も思ったが、死にたいとは思わなくて、ここで死んでたまるか、このまま死んでたまるかと思った。しかし、恐怖だった。紙袋を被せられた話、総合診療科に行きなさいと言われた話などをした。皆さん、なるほど、という顔をしていた。

パニック障害、あれから十年になる。知らぬ間に、そんな昔になってしまった。年も取った。記憶によると、薬のおかげで、翌日から、症状はほとんどなくなり、一二年後には、症状のことを考えることも無くなっていたと思う。薬は、一種のお守りのように携帯している。今持っている薬は、平成26年10月末に、一日一回、30日分を処方してもらった。今、10日分残っている。だから、二年半前からは、20日分しか飲んでいない。それも、たまに、原因不明の軽い目眩が来た時に、思い出して、一回飲むだけ、飲まなくても、いいと思うが、一応、有るから飲む。医者に、この薬をもらう時に、こんな飲み方をしていると、話した。そういう人もいますよ、と、いっていた。
http://island.geocities.jp/enpla_indonesia/newpage0063.html
当時のことを書いてある。
この十年の間にエマジェンシー(ダルラッ)に二回行った,一回は、原因は、長時間運転とその後の長時間の現場仕事だと思うが、目まいがきつくてシロアムに駆け込んだ。何でもないと言われた。二回目は、多分、トイレで力み過ぎたからだと思う。頭がぼーっとして、トイレから、ズボンをまともに履かないまま、這い出した。会社だったので、近くのハラパンクルアルガに運び込まれた。着いた時には、いずれも治っていて、こちらも、何でもないと、言われて、すぐ出てきた。年だからでしょうね、パニック障害の症状だとは全く思わないが、お守りにしている薬を一回分ずつ飲んだ。
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仲間から、原因は?と聞かれた。タンバー(溜まる) ストレスだよ、仕事のし過ぎ、いろいろ考え過ぎだよ。何事も真面目に一生懸命やる人がかかりやすいらしい、言ったら、全員が一致して、それは、無いでしょう、と言われてしまった。自由気ままに生きているように見えて、ストレスなど無縁と思われても仕方がない、動きをしていることは、自分でも分かっている。だから、そのときだけで、すぐ直ってしまったのかもしれない。

中には、本当のパニック障害じゃないでしょ、本当のパニック障害なら、薬だけでそんなに早く治るはずがないという、意見を寄せてくる方もいらっしゃる。もっと深刻な人が多いようだ。私は、ラッキーだったかもしれない。滅茶苦茶苦しんだと、自分では思うが、その期間は、自分でも思い返すと、かなりの行動をしたと思う。何とかならないかと、インドネシアでは大病院、日系病院、近所の病院、約3か月行動しまくった。日本へ脱出してからも一か月間、大病院の救急に、何度も、飛び込んだ。そのたったの4か月だった。やはり、神経をよく使う神経質な人間ではないようだ。私は神経をよく使っていると思うのだが、世間様の方々は、もっともっと、神経を使っているのでしょうね。

73歳近い、老人としては、世間から見れば、かなり、ハードな動きをしていると思われるだろうが、私としては、決して、無理、無茶をしていると思っていないし、頑張っているとも思っていない。自然にやりたいことをしているだけです。それが、できる事が、パニック障害になった原因かもしれないし、短期間で治った原因かもしれない。私は両方だと思っているから、私が動ける限りは、自分のペースを変えることはできない。
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毎日のブカプアサに飲むものを道端で売る風景が、風物詩になる。
 

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(^_-)-☆VISA知識 [知識]

 2642 日本で取ったので、インドネシアに戻って、次の何種類かは、エージェント(サクラ)に行って、パスポートを渡せば、申請をしてくれて、イミグレ(私に場合はブカシ)写真撮影、サイン、指紋をして来れば、その三日後くらいに、ほとんど、全て、終わる。

日本からインドネシアに戻るチケットは、ビザ申請の時に必須だが、その出発日をいつにするかが問題で、その日を決めるのは、インドネシからVSBが大使館にテレックスで届けられ、私の方にe-mailで入ってくることが大前提になる。

しかし、今回の場合は、招請状について、全く、エージェントも会社の担当者も、必要という認識がなくて、私から、エージェントに、聞いたところ、VSBのコピーとパスポートとそのコピー、エアーチケット(e-tiket)と写真を持ってゆけばいいと言われた。ちょっと変。「それだけでいいの?招請状や履歴書はVSBと一緒に大使館に送ってあるのか」と聞いた。 「送ってない、会社から、太田さんは受け取っていないのですか」と言われた。会社の担当者、「そんなことをエージェントから、聞いていなかった」と言う始末。それから、エージェントから会社にフォームが送られ、コピーではなく、オリジナルを郵送してもらわなければないので、また、確定できない何日か日数がかかることになってしまった。
これでは、いつ、インビテーションレターが届くのか分からないので、インドネシアに戻る日を決められない、エアーチケットの手配もできない。それから、私が持ってゆく書類の種類やまだ、足りない書類の入手方法や大使館で渡されるフォームへの記入方法を確認した。インビテーションレターを発送したという、メールを、5日待ったが、どうなっているのか、連絡がない、私の方から、催促のメールを入れた。返事は、書類のコピーと共に、昨日、送る手続きをしたということだった。こちらから、聞かなければ、知らせないのかよ、という、気分。

発送日を確認したが、まだ、信用できない。何日かかるのか、その書類が、正しいのか分からない。だが、チケットは手配しなければならない。10日の出発という目標を変更し、それから10日後にした。10日の余裕があれば、間に合うだろう、と、思ったからだ。もし、まだ、問題が有って、申請できなければ、もう、その日にビザなしでインドネシアに戻ればいいと思った。そういう意味もあって、格安だったし、往復チケットにした。

2種類の書類が、送ったという日から4日後に、届いた。これで、ビザを申請できて、予定日に余裕をもってインドネシアに戻ることができるようになったと思った。ここまで、漕ぎつけるのに、会社の定款を変えてから、3か月近くかかった。無知とチェック不足と連絡不足が、エージェントと会社の担当者の能力不足で、余計な時間がかかってしまった。私が催促や確認を促さなければ、いつまでも、出来なかったかもしれない。インドネシアです。
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東京へは申請と受け取りで2往復した。交通費はシンガポール日帰りと変わらなかったが、順調にビザ312を取ることができた。もう、増刷ページの方だ。
 

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(^_-)-☆選択ビザ場所 [知識]

 2641 藤枝でした。ここには、家から、国道を西に向かい、宇津ノ谷トンネルを抜けると、もう、藤枝市、しかし、ここは、岡部町。バイパスを降りて、藤枝市街を通り過ぎるころ、右に、案内看板が見える。30分くらいの距離だ。土曜日、昼食付き、キャディーが一人ついて、1万6千円でした。シニヤーゲストだったが、やはり、高いと思う。桜は見ごろで、一応満足。ゴルフはあと一回。
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ピンクの絨毯、グリーンに、道に、淡いピンクが敷き詰められている。
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楓の一種だと思うが、グラデーションの紅葉をしていた。

何故、今回、日本でビザを取ることにしたかというと、未確定事項が、多くて、インドネシアに戻るタイミングを掴むことが難しいと思い、日本で、待つことにした。そして、日本で待つなら、シンガポールに行かないで、日本で取ってしまおう思った。

金額のことを考えた。ビザがなくなって、インドネシアから出るときに、はっきり、いつ、シンガポールに行くか分かっていれば、日本への往復航空券とシンガポールへの往復券を買えばいい、そして、当然、いつから、仕事ができるかも分かっているのだから、ベストだ。1300US$くらいだ。バカにならないのが、日本での交通費、この場合は、静岡東京二往復なので、200US$近くになる。
何もかもはっきりしていない場合、シンガポールで取るなら、日本へは片道チケットで帰って、インドネシアに戻るときに、日本からの往復チケットが必要、そして、シンガポール往復、それに、交通費を合わせると、2500US$(28万円)くらいになってしまう。なおかつ、インドネシアに戻って、一か月以内にシンガポールへ行けばければ、また、いったん、国外に出なければない。その場合は、エアーアジアを使ってでも200US$くらいは余分になる。イミグレでのリスクも高くなる。
そして、日本で、いつとれるかはっきりしていれば、日本への往復チケット(日本のインドネシア大使館にビザの申請するときに入国チケットだけを示せばいいし、ビザが取れていれば、インドネシア入国の時に、インドネシアから出るチケットはいらない)だけで、いい。これなら、航空券1000US$静岡東京三往復300US$になる。これが、ベストの金額だ。15万円くらい。
しかし、今回の私のような方法は、手続きや書類の不備で、なかなか、日本で取れない心配があって、とりあえず、片道チケットで帰国した。これが、800US$,そして、インドネシアには片道チケットを買えばよかったが、ネットで格安をチェックしたところ、往復でも500US$というのが見つかったので、それにした。静岡東京三往復300US$を足して、1600US$ということになった。今のレートで約18万円、22ジュタRpだった。今回はラッキーだった。
どうでしょうか、自分と会社の担当者と代理人、合計の能力次第ですね。初めての何かも他人任せの場合は、やはり、金額は会社負担だろうから、日本で、しっかり取ってくることです。
  

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(^_-)-☆どうでもいいか [知識]

 2633 桜の開花がつい二日前、例年、静岡の標準木の開花日は日本で一か、二番だが、今年は、かなり遅かった。また、千葉、銚子も例年よりかなり遅くて、昨日だったようだ。原因は言われている。専門家曰く、より早く咲いた地域に比べて、暖かくなるのが、遅れたからだという。いかにも、暖かくなる速度順に咲くようなことを言っている。それはそうに違いないと思う。が、しかし、私はちょっと違う考えを持っている。理屈っぽいが、それぞれの土地の桜は、それぞれの温度意識があるのだと思う。寒い地方と暖かい地方の感覚が違うのだと思う。寒い地方は、少し寒い場合でも咲く、暖かい地方は、寒い地方が咲いた温度を感じても、まだ、咲かなくて、もう少し、暖かくならないと咲かないのだと思う。開花温度に差があるのだと思う。静岡や千葉は。そこの桜は、他の地域より高い経過温度が必要になっているのだと思う。
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地震があった。静岡は震度いくつだったでしょうか。震度2以下だと思うが、よく揺れ、それも、少し、ということは、震源はかなり遠方とわかる。M6.1だとか、東南海地震を予想されている地帯の真ん中か。ところで、予想される大地震の前触れか、いつ来てもおかしくないといっている専門家はどういっているのでしょうか。直ちにコメントがあると思っていたが、どうでしょうか。報道で新幹線や建物などへの影響についてはあったが、地震に関しての解説はなかったように思う。どうでしょうか。
専門家の予想では、いつ起こってもおかしくないといわれだして、もう、40年以上過ぎる。この二三千年の間では、150年ほどの間隔で大地震が起きているが、今は前回大地震から150年以上過ぎているからだという。
しかし、私の思うには、二三千年の間の統計で、予想するのは、奇妙だと思う。せめて、一万年前ほどからの統計がほしい、しかし、それは、無理でしょう。ということは、専門家の説は、変でしょう。静岡では、大地震が予想されて以降、大地震ではなく、M6~7程度やそれ以下の揺れが何回か起きている。それによって、8以上の地震が起こる確率は少なくなるというか、応力緩和になっていると思う。
それに、沈下や隆起を知る計測器が設置されていて、それらのデータである程度大地震を予想しようとするには、十分なのでしょう。足りないから、もっと、多くという話を聞いていない。そして、そのデータは、全くと言っていいほど、定期発表と解説がない。まさか、知りたければ、データ収集場所へ見に来いというわけではないでしょう。地震津波の予想は、現在、全く不可能でしょう。日本もインドネシアも、大きさは分からないが、どこに、いつ来てもおかしくないと予想するなら、その予想は、大正解だと思う。
三重県沖地震は、大規模地震との関連について、コメントを出してほしいものです。April Fools' Dayの地震でした。
 

タグ:地震 開花 満開
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(^_-)-☆日本製 [知識]

 2602 まだ、早いが、早めに、インドネシアの何人かから頼まれた工具などを買いに行ってきた。インドネシアでは、無いのか、見つけることができないもの、あるいは、あるが、品質が悪すぎるもののいくつかを頼まれている。
剪定鋏、製品を切るだけだが、固い物、柔らかい物、チューブやパイプ以外にプロファイルを真っ直ぐ切ることができて、切れ味が落ちないものは、日本製に限る。インドネシア人にもその差ははっきりわかる。

カッターナイフの刃、これも、同じ、どういうわけか、日本製以外の刃は、切れ味が悪いし、長持ちしない、特にスパイラルカッターの刃は、日本製に限る。
 
マグネットピース両面テープ付き、これは、あるのかもしれないが、インドネシアで売られているのを見ていない。プロファイルの曲がりや開きや閉じ具合や冷却金型へ入る溶融樹脂の角度を調整するのに必要不可欠である。これは、私の押出成形技術にも大いに関係がある。磁石によって、助けられている。無ければ、うまくいかない場合が多い。磁石に頼る点が多い。
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沼津の工場が狭くなり、従業員は地元の人なので、そのまま、沼津工場として残し(後に独立させる)、私は、親が住んでいる地元の静岡に本社工場を移した。35歳でした。用宗港の東側、すぐ横の当時新築の貸工場、70坪くらいでした。仕事は、また、ゼロから、初めは一ラインだったが、北川工業や南部化成、葵プラスチックなどから受注をし、三年の間に3ラインにした。この工場も五年で一杯いっぱいになり、現在の自前の土地と工場に移した。成長と共に移動でした。
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春霞の日々が続いていて、伊豆半島へ行ったときにも富士山をはっきり拝むことができなかったが、今日は、久しぶりにはっきり見えた。インドネシアのコマーシャルには、桜と共に、頻繁に出てくる。太田さんは、日本のどこから?と聞かれた時は、まず、静岡と答える、全員が知らない、次に、ブヌン フジの近くだよと、行ってやる。それで、日本のどこら辺りか、分かるとは思わないが、一応、彼らは、それで、うなずく。
 

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(^_-)-☆閏年 [知識]

 2601 二月から三月にかけて日本にいることは、この二十年間、全くと言っていいほど無かったと思う。意識して、避けていたのです。だから、雛人形を飾る手伝いもしなかった。ところが、今回、たまたま、日本にいるので、“おじいちゃん、棚の組み立てをしておいて、飾るのは私たちでやるから“ということで、組み立て図を見ながら、雛壇を作った。上の子の学級が34人中11人風邪で休んだということで、学級閉鎖になったといい、早く帰ってきて、彼女が雛飾りをした。私の親が、娘が生まれた時にかったものだから、45年物と言っていい。
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で、なぜ、この時期には日本に帰ることを避けたかというと、花粉症のせいだ。

実は、私は物心付くころから花粉症だったのです。勿論、花粉症という言葉はありませんでした。毎年、寒い時期が終わる頃、春になる前二月から三月にかけて、必ず風邪をひいていました。(そのときの表現です)どんなに用心をしても必ず、でした。最終テスト(期末試験)終了式、卒業式の時期、鼻紙、チリ紙といっていた。を一杯ポケットに入れて、くしゃみをしながら鼻をかんでいました。あまりにうるさいので、テストの時は時間一杯、教室にいないで、半分くらいの時間で外に出ていましたし、何かの式の時も途中で追い出されていました。困ったのが小学校の5年の時、上級生の卒業式で送辞を読むことになり、その時はまたひどかった。式が始まってすぐ式場から出て、送辞を読む時だけ戻って、終わったらすぐ外に出た。

 大学を卒業し、就職した時も新入社員講習会の時、大変だった。二十人ほどの入社した中で大卒は私だけ、他は全員高卒者。私は特別席のような一番前に座らされていたが、是が、クシャンクシャンやっているのだから、格好が付かない。惨めなものでした。これが、半年後には、組合の教宣部長になって、次の年の新入社員教育を私がすることになったが、副部長に代わってもらった。

 どんな治療をしても治らないのに、それが、4月に入ると、ケロッと風邪が治ってしまう。30歳の頃、巷に花粉症という名前が現れだした。私は子供の頃からの筋金入りの花粉症だったのです。皆さんは遅れている、そのころ、原始人はかからない文明人がかかる病気だなどといっている人がいて、私など、ひそかに子供の頃から文明人だと思ったりした。50年以上も花粉症と付き合っていたのですから。昔は、ねずみ色のちり紙、途中は白いちり紙、トイレットペーパー、ティッシュペーパー、最期はウエットティッシュでした。鼻の下だけでなく、片手を広げて顔を覆う、その範囲がすべて、くしゃくしゃになっていた。

 インドネシアに来て、よかったと思うこと一つに、花粉症から解放さえたということでした。現在はこのスギ花粉の時期に日本にいることは無いので、自然に治ったかどうか、確認することはできないし、確認したくも無い。という文章を依然書いた。

 閏年に関して、ウンチクを夕食時に孫たちに話した。一年は約365.25日(実際はこれもぴったりではない)0.25×4は、1だから、四年ごとに366日にして調整している。4で割れる年が閏年だよと、本当はもっと、細かい調整が必要だが、それ以上は言ってやらなかった。昔、陰暦を使っていた時には、閏月を設けて、季節の調整をしていたんだよ。イスラム暦では、季節がない地方で生まれたから、調整をしないので、一年が約355日のままになっているんだよ、っと。
  

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(^_-)-☆送金手続き [知識]

 2513 銀行へ行って、日本のある会社に円で送金をした。私がいつも利用している銀行の支店は、ローズやおたふくがあるルコにある。本店もすぐ近くにあるが、いつも、混んでいて、待ち時間が長いし、テーラーが大勢いて、慣れた人ならいいが、慣れない人だと、余計時間がかかるし、質問が多く、いちいち答えなければならないので、そちらには行かない。

ここの支店は、空いていて、待ち時間が短いし、セキュリティーが、どんな用件か聞いてくれる。外国へ送金をしたいと言えば、慣れた人、いつも、私の手伝いをしてくれる窓口を開けてくれる。顔なじみなので、あいさつもそこそこに、手際よく手続きをしてくれる。運転免許証とATMカードと納税番号(NPWP)カードと送り先と金額を書いた紙をその人に渡す。

私の口座はRpなので、振り込みの円の金額がRpで、いくらになるか計算し、私の口座からその金額を下す。まず、両替をするのです。その申請書は全部書いてくれて、私はサインをするだけ。その次に、海外送金の用紙に私が渡した、送り先と金額を書いた紙を見ながら、書き込んでくれる。送金手数料はあなた負担ですか、どうしますか、電信ですか、というようなことを聞いてくるので、それは、うなずくだけ。渡したカードや申請書をコピーし、一部を証拠として渡してくれる。すべてが終わるまで、10分くらいかかるが、待つ時間は長く感じない。

いつもは20ジュタとか50ジュタなど結構高額を送るのだが、今日は4ジュタ弱、その女性、本当にこんなに少ない金額でいいのか、気にしてくれて、本当にこの金額でいいのかと、聞いてくれた。送ったのは29,800円でした。それでいいのです。
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ここのルコ、駐車券の発券機のすぐそこにバリというカラオケがあり、その先に、いつの間にかできていた、何とかという、目立つカラオケがある。その先に、おたふく、という、日本食レストランがあり、その二件向こうにローズ、薔薇というカラオケがある。それらを通り過ぎて100mくらい先に、私が行く銀行がある。ルコに名前は知らない。聞いてみたこともない。

また、ルコとは、Rumah Toko 家と店が一体になった建物のこと、また、そのがある建物があるエリアのことを言います。
 

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