(^_-)-☆楽しい体験 [思い出]

 2836 中学から卓球を始めた。高校も卓球部に入った。しかし、中学でも高校でも同じ学年の仲間では、実力は二番手だった。ほどほどうまく成るのだが、一番にはなれなかった。学校自体は、在学中、二番手三番手としてでた、 団体戦で中学の時は市で二度優勝、高校の時には、県中部で準優勝と三位だった。私は、中途半端に、ほどほどだったと思う。それでも、文武両道を何とかやっていたという意識はあった。
静高の時は、滅茶苦茶楽しかった。(大学の時はもっと楽しかった)顧問の先生は一応いたが、いなくてもよかったし、いない方が、自分たちで運営するのに、いちいち、届けや、許可を取らなくていい。だから、顧問は、私たちに全面任せ、遠征の時だけ、学校から離れられると、喜んでついてきた。

キャプテンは実力が一番の者、二番手が、なぜか、マネージャーになることになっていた。私は一学年先輩のマネージャーの仕事をみて、大変だが、経験しておきたいと思った。いろいろの根回し、準備、キャプテンより、よっぽど、いい経験になると思った。二年の秋から、狙い通りマネージャーになった。卓球の方は、ダブルスに一番手と組んだ、団体戦は、シングル2、ダブルス、2シングルになっていて、三勝すれば勝ち、私は、ダブルスとシングルの三番目に決まっていた。大体、私で決めてしまおうという位置だった。一二年の時は5番目のシングルのレギュラーだった。これも、いい役まわりだと思っていた。私が勝って、勝利に貢献したこともあった。

さて、マネージャーの仕事、予算の獲得、先輩や後援会、その他、公共や商店街などから、多くのクラブ応援の資金が寄付されている。それの配分獲得交渉だ。自分たちの運営予算を立てて、それ以上の配分を要求するのです。ユニフーム、ボールがいくらで、いくついるから、合計いくら、卓球台を新たに買いたい、修理もしたい、遠征にいくらなどなどおもしろい。余らせることが出来れば、みんなで、食事会などができるから、掛かりそうな金額より、水増しをして出す。実際、この時から、領収書も金額を多く書いてもらうことをやっていた。有る運動具やと暗黙の提携をしていて、ボールや各種道具を買う時には、実際支払った金額に20%ほど、多い金額を書いてもらうとか、ネットやラバーを余分にもらうなどをしていた。高校の時から、静高生は、将来、官公庁で仕事のやり方を体験学習していたのです、こんなこと、やっていいの?と、思いながら。今でも、当然、やっていると思う。野球部なんかは、甲子園に行けが、多額の寄付金が集まる、そして、一回戦で負けてしまえば、多額が余ってしまう。それを、どうするのでしょうか、後援会費用の残高としておくのでしょうが、皆で適当に分けることにもなるでしょう。それを、他の部でも狙うには当然でしょう。

練習場所の確保や他校との交流。体育館の四分の一が私たち卓球部に与えられた場所でした。三面を置けた。剣道部が隣の四分の一、半分はバスケットでした。バスケットは、インターハイ常連で優勝をしているし、いつも、上位にあったチーム、きつい練習をしていて、気の毒に思ってみていた。と、いうことで、彼ら優先だから、何かと、彼らが全体を使うことがあった。その時は、前もって、知らされていたので、私たちは、他の場所を借りることになる。多くの場合は、近所の女学校に申し込む、今はどうか知らないが、当時は、城北、双葉、英和、精華、常葉がほぼ4km圏内にあった。それらの学校の顧問の先生に電話して、許可を取る、それは、皆さん、快く?OKをしてくれる。試合などで、顔見知りだし、静高だから、歓迎、そして、何より、迎えてくれる生徒は大喜び、男子禁制など問題なし。私立の学校が多いから、静大生がコーチをしている学校もあり、その静大生には私たちの先輩もいた。そのつてで、体育館が使える日でも、のこのこ、出かけて行ったこともあった。

合宿や先輩たちとの交流、新聞発行。夏休み中、年に一度の部内の選手権があって、先輩を招待する。合宿中に行われることが多かった。社会人、大学生などに参加してもらう、先輩名簿に従って手紙を出した。年に一二回部活動報告ミニ新聞でも、その予定は知らせる。55年前のことだが、今でも、私の処にも送られてくる、寄付金の振り込み用紙も丁寧に同封されている。合宿中のコーチを自主的にやって頂く、卒業して間もない先輩は、夜、泊まり込みで、卒業した後の体験談をしてくれた。私も大学生中は、コーチ役もしたし、泊まり込みもした。スイカなど差し入れもした。当時はお米持参だったので、お米も持って行ってやった。先輩の差し入れは当たり前のことだった。

卓球台で練習する前に体操は勿論するが、学校の外へランニングしに行く、学校一周、1kmは十分あった、4周が普通だった。それでは、面白くないから、浅間さんにも行ったし、百段何往復は普通、ずっと登って行って、地獄谷と言われていた急坂を転げ下り、臨済寺に至って、当時の静大の脇を通って帰ってくるコースもよくいった。また、駿府城の内堀一周も何回も行った。時には、外堀一周もやった。これは、目的の一つに女学校巡りのようなものでもあった。一寸、遠回りして、わざわざ、何か所かの女学校の前を通るのです。学校の前に差し掛かると、なぜか、皆、元気になるし、掛け声も出る。校舎の窓から、多くの学生が手を振ってくれる。それに、手を振ってこたえる。なんてこともやっていた。城北へは方向が違ったし、距離もあったが、そちらにも出かけていたし、一緒に練習する機会も多くあった。

それらの段取りを任せられるのがマネージャーでした。良き、思い出になっている。全然、苦にならなかったし、この役、他の人に取れなくてよかったと思った。既に、無意識のうちに、そのころ、色々の根回しのようなことをやってみていたのでした。
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新工場の現状、最初の完成予定から一か月過ぎている。二回の完成予定日も4っ日、過ぎている。この様子では、まだ、二週間以上かかりそうだ。それに、おそらく、出来たと言われた時に、あそこがダメ、ここがダメと、クレームを沢山つけることになりそうだ。


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