(^_-)-☆適切配分 [行動]

 1563 何故でしょうか、最近、停電が多くなっている。突然の停電は家にいる時の夜から朝までの間、大きなローソクを備えてあるので、役に立つ。昼間はレストランで、その地域の停電があった、ローソクに点火して各テーブルに置いたころ、20分ほどで回復した。レジがその間使えなくて困ったことになっていた。13;00ころ家に着いた時のも停電していた。まいったな、と思いながらパソコンを操作していて、長く掛かりそうなら、会社へ行こうかと思っていた30分後位に回復した。原因は何なのでしょうか、分からない。

昨日の文章で、私がインドネシアの労働者だったら、やはり、今の労働組合と同じような要求をするでしょうと書いた。

私の考えは高校生の時から固まっていた。高校の時に静岡で唯一、日米安保条約の締結に反対のデモを20人くらいで実行したくらいだから、自分の考えは押し通す主義だった。自分の手が届く範囲しかできないが、一緒にいる人たちに出来るだけ同じような環境や条件を作ってやらなければならないと思っている。サラリーマンの時にはそれはできなかったが組合運動でそれに近づけようとした。自分の会社を作ってからは、同業他社、同地域の中で比較して、一番いい条件で常に仕事をしてもらっていた。インドネシアへ来ても、押出部門は全員、正社員にした。勿論、テスト期間が終わってからです。そして、本社が日本の他社から購入していた製品を作り始めその購入価格を毎月200万円下げてやった。本社にはいきなり毎月200万円以上の貢献をしたことになる。その上、独自でインドネシア国内の日系企業へ貢献し、充分の利益を生み続けた。
次のA社へ移ってからは、体制が出来上がっていて、私の考えと違っていた。その会社には、まったくできない仕事をできるようにしてやったが、その価値が分からない会社だったので、最初の会社が撤退したときに引き受けた従業員を置いたまま、私の会社を作った。その会社はインドネシア人に経営を任せたので、全員が正社員だったし、条件は皆さんが満足するものだった。A社に移っていた、元々の私の子供たちは、ほとんど全員、止めて、私が作った会社に来てしまった。その条件も正社員でした。勿論、利益は上がっていた。

そうこうするうちにN社が進出してきて、押出し部門の立ち上げを手伝えというので、あまり望まなかったが、私が作った会社をN社に売った。私の子どもたちは全員正社員で雇うことを条件にした。その後、私はN社から飛び出してしまったが、子供たち全員、N社に残っている。他の部門は、ほとんどの従業員が契約社員だが押出し部門は今も全員が正社員のままだ。そして、会社全体では、ほとんどもうかる状態になっていないが、押出し部門は単独計算で充分、利益を上げている。2番目のA社は、私が考える条件でみなさんを使っていれば、今N社でやっている仕事の全部を、A社でやっているはずだったのですが、残念でしたね。これを“逸失利益”と言います。

ということで、私はやってきた仕事は、製品を売るのではなく、技術を売る仕事です。人が、入れ替わり立ち替わりでは、人は育ちません、ちょっと、コツをつかみ始めたころに止めさせて、まったくの素人を、入れるのでは、無駄の繰り返しだ。継続は金です。だから、同じ会社の中で別の仕事をしている部門があれば、大体、それらの部門から、うらやましがられたり、焼きもちを焼かれたりしやすいのです。だから、理解しない人たちからはパワハラに遇いやすいのです。
IMG_1028.JPGIMG_1027.JPG
朝、家で食事を作らない家庭や単身者が多い。朝から道端のカキリマなどで、買ってその場で食べる人が多いし、家に持ち帰って食べる人も多い。
  

nice!(1)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

nice! 1

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

Facebook コメント

トラックバック 0