(^_-)-☆遠い記憶 [思い出]

 2776 オリンピックの閉会式の様子を見た。勿論、東京オリンピックへの引き継ぎセレモニーが興味深かった。安倍首相が中途半端なマリオで登場したのには、ちょっと、賛否はあるところだが、おおむね、好評だったのかな。政治家が前面に出るのはどうかな、と思う人もいるでしょうが。あのマラソン銀メダルのエチオピアの選手を、土管を通して、安倍首相が日本に戻るときに、一緒に、日本に連れて行ってやるならいいと思うが。総じて、なかなか、粋な、東京紹介だったと思う。四年後に期待を待たせるのに効果があったと思う。

ところで、今書くかどうかのことだが、私が大学3年の10月、東京オリンピックが開催された。これにまつわって、忘れられない思い出がある。以前書いたかな、記憶がない。
大学三年の初めごろから、学芸学部の教育課程の女性を好きになっていた。石和のブドウ園の娘さんだった。一学年下、私は卓球部のキャプテンをしながら、書道部にも入っていて、そこで会った。そして、私の親友だったY君もその女性のもう一つ属していた合唱部の友達を好きになっていて、紹介しろよと、言われて紹介し、その後、愛宕山の彼女の家に遊びに行っていたようだった。どちらも、恋人と言えるまで状態ではなかった。しかし、四人で良い付き合いをしていたと思う、フォークダンス、学内体育大会、学園祭などの時には、開催委員会のメンバーになって、いい役割をしていた。一緒にいる時が、長かった。

夏休み、遊ぶ金がないし、夜勤の仕事があるというので、友人二人で、甲府市の南部にあるアイスクリーム清三会社で、紙で棒付きのアイスクリーム(チョコマロン)を包む仕事をやっていた。夜、6時から朝6時まで、一晩で、1200円位だった。当時、大卒初任給が2万円位だったから、アルバイトとしては良い給料だった。20日ほどやって、ちょっと割り増してもらって2万5千円程受け取った。その会社の経営者は、大学の先輩だったこともあって、な私大生にアルバイト賃金は、ちょっと多くしてくれていたようだった。下宿の家賃が畳一畳千円の時代でした。

その話と東京オリンピックと、何が関係あるの?夜勤明けで帰宅する途中、いつも、岡島の前を通る、その日、宝くじを売る場所に長い列ができていた。直ぐに、オリンピックの入場券を売り出すと分かった。開会式や閉会式などは無理として、国立競技場に,行って見たいと思った。第三コーナーの最上部、100m競争のスタート地点から対角の一番遠い場所、そこ辺りが500円だった。二人でそれぞれの彼女と四人で行きたいなということになり、私はたまたま千円を持っていた。彼は100円しかっていなかった。その当時、学生が食べる朝食は50円で腹いっぱい食べられたから、彼は、十分なお金を持っていたのでしたが、チケットを買うには足りない。私が行列に並び、彼は下宿へ行ってお金を持ってくると言って、消えてしまった。三十分後、彼は、戻ってきた。7時から売り出しで、7時半ごろ私たちの順番になった。私は千円を出し、二枚チケットを買った。彼、ポケットを探っている、ない、という。持ってきたはずだという。それでも、どこのポケットにもない。慌てていて、ポケットに入れるのが不完全だったのかもしれない。がっかり、意気消沈、急いで、お金を取りに行ってきたのに。彼は、買うことができなかったが、私は買った。彼には悪いが、これで、あとは、彼女を誘うだけだと、思った。続く!!!   
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渋滞で止まっている車のサイドミラーからの風景、前も対向車線も渋滞している。高校生の二人乗りが捕まっている。相場としては、この警察官が10万Rp(8百円くらい)受け取る。高校生だからもっと安いかもしれない。

(^_-)-☆子供の頃 [思い出]

 2751 安西橋の手前と安西橋の向こう側、安西五丁目と山崎だ。小学校のころ、この道は、真ん中の一車線の広さしかなく、舗装はしてあったと想うが、剥げていた部分の方が多く、ちょっと風が吹けば砂煙が上がっていた。車はほとんど走っていなかったので、アスファルトが残っている場所に座り込んで、眺めの釘と石で、埋まっている釘、入りがね、ねじ等を掘り出し、貯めて、屑鉄屋に持ち込んで小遣い稼ぎをしていた。アルミや銅(赤)や真鍮は高く売れた。リヤカーや大八車が行き交っていて、自転車の後ろにリヤカーを繋げて引っ張っている姿もあった。この通りを塞ぐようにしてラジオ体操をしたし、缶蹴り、水雷駆逐、Sチンなどの遊びをしていた。
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安倍川の土手まで500mくらいのところに住んでいて、安倍川には日常的に遊びに行っていて、泳ぎも川に放りこもれて覚えたし、魚釣りや石に下の魚を石をぶつけて取ったり、ぬかビンを仕掛けて取ったりして遊んでいた。時には、安西橋を渡って、大門川、藁科川の方まで遠征し、木枯らしの森付近で泳いだり魚を追いかけたり、ぼったいで魚を捕まえたり、鳥餅でチャッチャ(子供ウグイス)、目白などを捕まえたりしていた。船山にもよく行っていた。蝉やクワガタ、カブトムシは当たり前、アユなの魚やイナゴやドジョウ、蜂の幼虫は食用だった。

その内、砂や砂利の採掘が盛んになり、河原のあちらこちらに、採掘跡の広い深い穴(浅いと思って歩いていると突然深くなってしまっていた)が出来てしまっていて、その穴に落ちて亡くなった子がいて、なんとなく、安倍川で泳ぐことが禁止になってしまったように覚えている。

今の風景、状況からは、想像できないほど、川向う(山崎新田?羽鳥?)は、ど田舎だった。安西橋を渡って向こう側に行くのは冒険だった。大門川で蛍の大群に遭遇した時には、大感激したことを覚えている。安西橋の両岸の下には、昔はコジキと言われていた人たちが住んでいた。そのうちの一人、“ごんじい“に助けられた思い出は忘れられない。
 
 こんなことが原点だったから、インドネシアでの生活は全く苦にならないどころか、快適そのものだ。


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(^_-)-☆ルーツ [思い出]

 2624 父親が亡くなったとき、もう、二十年以上前になる、私がお墓を作った。富士川町に住む、いとこの内、本家の石材店以外は全員、本家のお墓(江戸時代からの墓標がある)の周りに、自分たちの親が亡くなった時にお墓を作った。だから、このお墓の周りは、太田家と彫られたお墓が沢山ある。本家が石材屋だから、静岡に引っ越しても夏休みには、毎年、富士川の橋のたもとの本家に遊びに来ていた。富士の方から国道一号線の橋を渡ると、国道は、その渡りきったところで急カーブを描いて左折している。左折しないで、認知症老人のごとく、真っ直ぐ行ってしまうと、太田石材店に突っ込む、そんなところにある。今でも、いとこがその石材店をやっている。信号がまだない時代、よく、太田石材店にトラックが突っ込んだという話は、聞いていた。
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 で、お墓を作るのは、簡単で、安い、お寺も先祖代々、子供のころから、そのお寺の周りの山で遊んでいたし、お寺の坊さんとも、仲が良かった。今は,年に一回か二回しか行かないし、父母だけしか入っていないお墓に、次に入るのは私である。準備は万端である。この地より出でて、この地に戻るはずである。
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 この鉄のパイプはなにか分かりますよね。日本軽金属蒲原工場の第二発電所の取水パイプです。私が生まれた年に利用され始めたという。私の父親は重電の専門家で、その仕事に携わっていた。ボーキサイトから最後に電気分解、アルミニウムの抽出に携わっていたのでした。富士川の芝川辺りの第一発電所からの放水を使っている。二三歳のころ、会社の運動会に行ったことを覚えている。発電所についても、分からないながらも説明をされていた。四歳の時に、どういう分けか、静岡に引っ越した。なぜ、日軽金を止めて、静岡で荒物屋を始めたのか、説明を聞いていない。サラリーマンには向いていないと思うが、何故か、分からない。商人にも、向いていないと思うのだが。

 孫にこんな話をし始めている自分に気付く。
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(^_-)-☆遠い記憶 [思い出]

 2620 昨日書いたプロ野球選手の円陣の話、それに関して、世界の王会長の談話を読んだ。さすが、王氏、いいことをおっしゃる。スポーツマンだね。

 で、何も関係ないが、思い出をちょっと書く、甲子園春の選抜で優勝した王選手、ピッチャーで四番だった。中学の時、家の側の静商(セイショウ)の野球選手がよく、田所選手や興津選手などがいて、家の前までランニングをしてきた関係で、小学校の時からファンだった。高校は静商へ行って野球をやりたいと思っていた。当時、静高(静中から城内高校)と静商が甲子園へ殆ど交代で出ていたし、定期船は“静岡の早慶戦”と言われていて、人気があって、外野まで満員だった。多分、私が中学の二年の時だったと思う。招待試合として早実が来て、静高と静商とダブルヘッダーの試合が草薙球場であった。私は父親と一緒に見に行った。両校とも負けてしまったと思う、王選手さすが甲子園優勝投手だと思った。

しかし、そのときは野球をあきらめて、卓球をやっていた。そして、中学からは静高の方が近かったし、静高の卓球部は、全国大会にもよく出ていたので、二年の時には、まだ、駿府城内の城内高校へ教えてもらいに通ったし、三年の夏までは、新しい、現在の場所の静高の体育館へ練習に行っていた。そして、静高に入っても、当たり前のように、卓球部に入った。野球は、二年の時、私の中学の同級生をはじめクラスの仲間が甲子園夏の大会で準優勝をした。彼らと一緒に野球などできるはずがない。彼らのスピードといい、飛距離といい、とてもじゃないが、野球などやらなくてよかったと思った。同じ体育館で練習をしていたバスケットもインターハイで優勝していた。私たち卓球部と言えば、静岡の中部大会で準優勝止まりだった。
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静岡地方気象台の観測用ソメイヨシノはまだかもしれないが、ここの染井吉野は、五つの花どころか、一分咲きのようだ。
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 トンネル内の火災があったばかり、この先1kmほどにトンネルがある。前方工事渋滞とかで、左車線一車線になろうとしている。ちょっと、緊張する。
  

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(^_-)-☆二回目のプール [思い出]

 2398 思い出の夏の一コマ。そのつもりで水泳パンツを持っていったので、孫たちと一緒にプールに入った。一周、200mほどある水が流れるプール。初めてではないので、知ってはいるが、浅い。1mほどしかない。顔を上げたままの平泳ぎは足がついてしまう。顔をつけながら泳ぐしかないし、仰向けになって泳げば、周りが見えないから、他人にぶっつかってしまうし、クロールなどやれば、それこそ、一かきで、前の人にぶっつかる。要するに、泳げない。歩くしかない。泳ぎたいなら、流れるプールでなく、普通のプールに行くしかない。という、大浜公園プールでした。
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このプールは私が子供の頃にも既にあった。友達が偶にいっていったようだが、学区からは、自転車一時間掛かったので、私はいったことがなかった。もっぱら、学校のプールへ行くか、ほとんどは、安倍川へ行っていた。土手の構造が、ところどころに、流れを弱めるためだろうか、流れと直角に土手の出っ張りがあった。その下流側に,深い淀みがあった。そこが、プール代わりになり、子供が集まっていた。土手から飛び込んだ、競争をしたり、鬼ごっこをしたりて遊び、泳げない子は、年上の人につかまえられて、放りこまれたりもしていた。私も小さい頃、上級生に、両氏と両腕をつかまれて、振られて、縁に放りこまれたものでした。そんな遊びをしているうちに、泳ぎが、何も、意識しないで、できるようになった。

また、今は、取っていないと思うが、砂利の採集が盛んに行われていた。パワーシャベルで深く掘っていたので,その跡は、絶対、足がたたない深いプールのようになっていた。格好の水泳場になっていた。

海水浴に行くなら、三保ノ松原で知られた、三保海岸に行くか、袖師海岸だった。袖師には東海道線の駅が、夏だけ使われていた。清水と興津の間だった。今は、ないでしょう。というより、袖師海岸自体が、埋め立てによって、清水のコンテナ港になってしまっている。駅から海岸までの道の両側に食堂や土産物屋や海で使う道具らなどが並んでいたし、海岸には、多くの海の家があって、大いに賑わっていた。最後に行ったのは、高校の時の遠泳だった。対岸の三保まで泳いだ。真夏の世の夢である。

これらのことが、いま、良く行くパンガンダランに夢は繋がっている。
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ヲータースライダーのチケットの自動販売機。
 

タグ:水泳 思い出
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(^_-)-☆特待生 [思い出]

 2394 広島原爆投下の日でしたね。色々な特集番組が組まれていた。高校野球甲子園大会の開会式を、多分、初めてテレビで見た。好ききらいということではなく、ほとんど興味はなく、ほとんど、見たり、応援にいったりすることはなかったが、高校野球に関しての思い出はある。
先ず、今日の始球式で王貞治さんを見た。私が、多分、中学二年だったと思う。選抜で優勝した後だったと思う。草薙球場で、静高と静商が招待の早実と練習試合をした。それを、父親と一緒に見に行ったのでした。その時の王選手を見たくて、観覧席は一杯だった。王選手はピッチャーで四番だった。それだけのことだった。

その後、高校二年の時に、我が静高は、あれよ、あれよという間に、甲子園の決勝までいってしまった。決勝相手は、法政二高、その時のピッチャーで四番が後にジャイアンツの九連覇時代の一番バッター赤手袋の柴田選手でした。三対ゼロで負けて、準優勝。誰もが、勝つとは思わなかったので、良く底までやったな、という感じだった。びっくりした。やつら、そんなに、凄かったのかと。何度も、書いたかもしれないが、二番、セカンドの友人がいた。決勝で柴田から二本のヒットを打った。中学三年の時の同級生、私が一学期三学期の学級委員長、彼が副、二学期は、その逆だった。静高の野球部だけではなく、一般入試枠の他に、スポーツで優秀なら入学させていた、私は、当時から知っていた。しかし、彼は、一般入試で受かる学力も持っていた。
高校の一年の時も同じクラスだった。一年六組湯沢コースと言われて、特殊なクラスだった。ホームルームデーといって、クラスで自由に目的地を決め、遠足ではないが、一日一緒に過ごそうという日がった。自分たちで計画を立てて、手配もするのです。バスで富士五湖の方に行こうということになった。面白かったのは、どこか知らないが、バスを止めて、三つ峠に登ろうということになり、ほとんど、駆け足で登り降りした。
中学の時の運動部である程度活躍していた生徒が多く、集められた。野球部が6人始め、硬式テニス、バスケット、これらは当時、インターハイや国体で上位か優勝の実力を持っていた。その中に、私の卓球や柔道や重量挙げや軟式テニスなどの選手もいた。だから、一年の一回目の実力テストの結果は、学年で最高が15番から最下位までとバラツいていたが、学年末テストでは、最高が100番くらいになってしまっていた。

入学した時には、十分な学力があっても、運動部に属していると、どうしても、勉強の時間は短くなるし、同じ時間勉強しても、疲れが残っていて、思考力や記憶力が減っているのです。合宿の時などは問題集や参考書を持ってきて、夜は、それぞれ、勉強していたし、試合にいっても、試験が近い時には、合間に教科書を開いていた。それでも、普通に勉強している人とは差がつくのは仕方がない。私の場合は、三年の夏が終わって、部から離れた時から、まともな勉強を始めて、最終実力考査でやっと100番に入った。静高は、当時、100番以内なら、中程度の国立の工学部に入ることができるという評価だった。一部、二部校があって、家庭の事情で、大学は国立、浪人は駄目という条件があったので、滑り止めの二部の梨大工学部に滑り込んだ。

私が言いたいのは、今はどうか知らないが、当時は、野球部に限らず、全国区クラスの生徒が多かったが、入学当時は、ほどほどの学力を持っていた。ただ、三年間で、学内順位的には落ちて行った。運動で大学に入る人、普通の試験で大学に入る人、まちまちだった。中学の時に、上位20%くらい以下という生徒はいくらスポーツ能力が優れていても静高で受け入れることはしなかったと思う。

全ての生徒が認めていた。運動と勉強の両立とはどういうことか、それぞれが、どの程度以上なら両立できているというのか、自分の能力と合せて、評価はまちまちだと思う。当時の私と私の周囲にいた運動部員は全員、両立させていたと思う。
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賑やかな子供のころと比べて、今は、人が少ない、国道一号線、静岡駅前から500mほど西です。人も車もほとんど見えない。
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ショッピング。


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(^_-)-☆定期戦 [思い出]

 2384 小学校の時に父親の自転車の後ろに乗せられて、草薙球場へ行って静高静商(しずこうせいじょう)の定期戦の観戦に連れて行かれた。私は興味がなかったが、父は野球観戦が好きだったようで、都市対抗戦やプロ野球観戦にも付きあわされた。

明日、県大会の準決勝戦、静高静商戦がある。定期戦は、今はどうなっているか知らないが、以前は毎年行われていた。静岡の早慶戦などと言われていて、外野まで満員になるほどの人気だった。また、私が静岡に住んでいた高校生当時は、甲子園に交替で出ていたほどレベルが高かった。両校の卒業生もプロ野球や東京六大学で活躍していた。

小学校の頃、静商の野球部員が掛け声を掛けながら、安西の私の家の前までランニングに来ていた。また、吹奏楽のレベルが全国大会優勝入賞の常連だった。定期戦の時には。静高のブラスバンドは貧弱で、静商のブラスバンド部が戦いの前にグランドで行進演奏をして、観客を魅了していた。私は、何回か、学校の授業が終わってから、練習風景を見に静商まで行ったものでした。他のクラブ活動を見ていた。そんなことだったので、当時は静商に行きたいと思っていた。

ところが中学生になってからは、どうも、大学へ行くなら、静高へ行った方がいいと教えられた。そこで、静高へ行くことにした。野球の定期戦は当然やっていたし、甲子園の出場も夏も春も交替に出ているような感じだった。同級生が甲子園へ行っても、余り興味はなかった。応援も昼休みに練習すると掲示がでていたが、集まりは悪いし、応援部の連中もお願いの形で、逆にヤジられていた。で、私は、三年間、一度も野球の試合の応援に行ったことがなかった。全国で準優勝した時も草薙にも甲子園にも行ったことがない。ただし、同じクラスの友人も多かったので、頑張ってほしいと思っていたし、勝てば、うれしいと思っていた。二学期になって皆と会えば、スごかってねといっていやっただけだった。それだけのことだった。

しかし、明日は勝ってほしいし、甲子園に行って欲しいと思う。日本にいて、予選の様子を見守っているのは、初めてだと思う。
勝てば、寄付金の振り込み用紙が送られてくる。寄付はしない。卓球部のOB会としては、寄付をする。
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マツダまで行ったついでに、その先まで行ってみた。右側に草薙総合運動場?がある。野球場もこの中に有るが、私が行ったことがある野球場とは場所が違うと思う。
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ドッジボールの練習をしている孫。

タグ:応援 定期戦
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(^_-)-☆母校、静高 [思い出]

 2262 静岡では静岡高校と言わない、静岡とも言わない、静高という。♪岳南健児一千の理想は高し富士の山、八面玲瓏白雪の清きは我等の心なり♪♪(がくなんけんじ、いいっせんの、りそおおわたかし、ふじいのやま、はちめんれいろお、しらあゆきの。きよおきは、われえらの、ここおろなり)二番も同じ
     
    静岡高校に関する記事を読んだ。野球部員は一般学生とは別枠推薦入学で受け入れている、他の私立高校と同じようなものだ。という記事でした。確かに、入試の結果が不合格であっても、中学の時に野球で活躍していた有望な生徒なら、別枠で入学させている。私がいた55年以上前からの話、私のいたころは、野球、硬式テニス、バスケットは必ずと言っていいほど、全国大会で活躍していたし、全国優勝も多かった。今はその名残で野球部だけが、昔ほどではないが、甲子園に時々出場しているようですね。

出ると負けという印象が強いが、今日も、選抜で勝ちましたね。良かった、よかった。

推薦だろうと、一般枠だろうと、ちゃんと合格点を取って入学し、野球部に入った人も、それぞれ、刺激しあって、雰囲気を良くしているのが、静高野球部の伝統だと思っている。

私がいた55年ほど前、静商(セイショウ)と、ほとんど交互に全国大会に出ていたと思う。定期戦は、小学校の時から、草薙へ自転車で一時間かけて見に行っていた。その時は静商を応援していたが、進学は静高と決めていた。入ってみると、流石、推薦が多いとはいえ、実力テストの成績は370人全員が張り出され、野球部の連中を捜すにはビリから見た方が早かった。それでも100番くらいに頑張っている奴もいた。そして、静高でビリに近くても、他校なら上位に入る学力は有った。

私が二年の時に夏の甲子園で準優勝したのだが、私は、草薙にも甲子園にも応援に行っていない。私自身が卓球で県大会に行ったり、合宿だったり、行っている暇はなかった。静高はそういう生徒が多かったので、応援に行ったのは全校の三分の一もなかったと思う。チアリーダーなどいなかったし、ブラスバンンドもなかった。応援部の連中が、バンカラスタイルで三三七拍子とやっているだけだった。応援団の連中の言葉に従う生徒は少なかった。同級の石田勝君(石田三人組みの一人)の活躍が目覚ましく、一点差で勝ちあがっていった。中学で同級の稲葉君もセカンドで大活躍だった。雨の日、体育館に投球練習にやってきた。近くで卓球の練習をしていたが、彼の投球練習でバッターボックスに立ってと頼まれたので、立ったことがある。ド真ん中のストライクだったが、私は逃げてしまっていた。その一球だけで、懲りた。

という、私は、78期卒 71歳です。まだ、インドネシアで技術指導などをしています。先輩がインドネシアで応援しています。
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Universal Travel Chargerです。HPにケーブルを繋げてチャージをするコードは、HPに標準として付いているが、長く使っていると接触が悪くなって、チャージができなくなってくる。バッテリーが切れてしまって電話を受けられないというのは、失礼だと思うし、その言い訳は恥ずかしいと思っている私としては、予備のバッテリーを常に持っている。それでも、チャージをするには、HPに戻さなければならない、そこで、私は、HPに戻さなくてもバッテリーチャージができる、チャージャーを使っている。チャージ中は青色ランプが点滅している。終了すると赤ランプに変わる。二本の針は見える、そこにバッテリーの接触部分を付けて挟む込む、構造は単純です。3万Rp(250円)です。

ブレーキングニュースが流れた。夕方4時にOlgaオルガ、有名タレント、コメディアンがシンガポールの病院に入院していたが、インドネシアに戻ることなく、亡くなった。まだ、32歳くらいだと思う。ライブのテレビ番組は全て,追悼番組になってしまったほど衝撃的な出来事だと思う。インドネアシアでは、一二の人気者だった。私もフアンである、悲しい。
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この写真はポンドックインダー病院に入院している時だが、ラフィやジュペなど有名タレントで友人と一緒。
  

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(^_-)-☆夢の途中38 1 [思い出]

 1917 その頃、仕事は軌道に乗っていて、忙しかった。いわゆるバブルの初期、大いに儲かっていた。押出成形機40mmφ一台で、当時でも200万円売りあげていた。3分の2以上が荒利で半分以上が純利益だった。それも原料価格、PCが900円/Kgしていた。それを毎月3~5トンこなすのですから、面白いように儲かった。勿論、2千円くらいした12ナイロンや11ナイロンも扱っていた。軟ポリのスパイラルチューブも原料が100円/kgで500円以上で売れていた。上げた利益で装置を買って、特別償却で一年目に50%償却というやり方をし、設備も増やした。

始めた当初は、商社からの要求で、原料を購入する前に半額ほどの前金を振り込んでいて、入荷したと同時に残金を支払っていた。しかし、入金の全てが月末締めの翌月払い、そして、90日の約束手形だった。極端な場合、原料を購入してから5カ月後にならないと現金を受け取れない事になっていた。最初半年ほどで手持ちの資金がほとんどなくなってしまったが、半年後からは、預けておいた手形から当座預金に現金が入るようになってきたので、ずいぶん楽になった。その上、一年後からは、回し手形で良いよと言われ、毎月の売り上げの半分くらいを回して、請求金額より少し多く払いながら、半分は銀行に預けるようになっていた。

それ以後、静岡に移ってから、50歳で社長を止めるまで、銀行から小切手帳は貰っていたが手形帳は貰ったことが無かった。10万円以下は現金、それ以上は裏判を押して手形を回して支払っていた。手形を割る事も全く必要なかった。預けた手形の期日が来るまで十分資金は残っていた。私が止めた時の株の評価は、20倍以上になっていた。
http://www.k4.dion.ne.jp/~enplaind/newpage007.html
38歳ころから、ずっと、安定成長をしていった。前にも書いたが、当時は、二人で仕事をしていたので、私が朝8時から夜8時まで、もう一人(現在セピックの社長)に夜の仕事をしてもらっていた。週二回、夜8時に出荷、納品に出かけた。先ず、厚木の向こうの海老名市まで、22時に厚木プラスチック到着、行きは東名、帰りは節約のために御殿場街道を使った。家に帰るのが0時を回っていた。朝5時に家から出て、御殿場の神場(じんば)というところにある東方電材という会社に6時前に納品し会社に向かい、7時頃会社に着いていた。その他の出荷は、運送屋に頼んでいた。
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発展し続けるリッポチカランエリア。ホテル チトライン(このホテルは1996年には既にあった。このあたりでは、サヒッドとここしか、外国人が泊まれるようなホテルはなかった。)の前の道を南に行くと右にEJIPへの入り口、左にHYUNDAI工業団地への入り口、その先に、大規模なショッピングモールの姿が現れてきた。ちょっと遠くからだが、リッポチカランモールに3倍くらいは在りそうだ。
 


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(^_-)-☆夢の途中22 3 [思い出]

 1881 H-PVC(硬質塩ビ)のパイプ、電線配管用に良く見られるものです。この製品の値段が1kg当たり27000Rpで売られている。10Mほど買った時の小売価格です。私がメーカーに頼んで原料を1トン作ってもらうと、1Kg当たり、 24000Rpです。どうなっているの、このカラクリは。もし、私が、小売価格27000Rpで売るには、13000Rp以下で仕入れなければならないと思う。では、メーカーは、その価格で売るには原料を6000Rp(55円)以下で仕入れることが出来なければならないと思う。リサイクル品とは見えない。何か安い増量剤が入っているのでしょう。例えば、そこら辺にある土とか。燃やして残りカスを見れば分かるが、分析する気にもならない。

入社したその年の10月に組合役員の改選があって、私は執行部の教育宣伝部長に押された。そして、その直後、代休優先という規則を撤廃させた。また、週休二日制も毎年一日ずつ土曜休みを増し、五年間で、完全週休二日制になるようにした。残業、休日出勤手当も15%から3年かけて25%になるようにした。「太田君、お手柔らかに頼むよ」。親会社の東レ並みが目標だったので、あまり考えることなく、行け行けの時代だった。

入社半年を過ぎて、私の配属先が示されなかった。創立3年めで、とにかく、大学工学部の新卒を受け入れるのは、初めての会社、私をどう、扱っていいのか、困っていたようだった。で、ずーっと前に書いたかもしれないが、大学の時の恩師が言われた事、「不良の山は宝の山と思え」の通り、押出部門に不良の山が沢山あったので、製造部長に頼んで、班長の一人が体調にすぐれず、私に、日勤になりたいとこぼしていたので、これ幸いと、いきなり、押出部門の三交替勤務の班長にしてもらった。工具の名前も知らなかった。プライヤー、ヤットコ、シャコマン、メガネ(レンチ)、パイレン(パイプレンチ)、ニッパーなどなど、化学では、知っているはずがなかった。『26のメガネを持ってきて』と言われて、“え??”だった。
中卒高卒の数人の部下から、仕事を教えてもらいながら、金型の事や樹脂の特徴、製品を繋げるコツや金型から樹脂を剥がすコツなど、どんどん吸収した。夜勤の時は大変、仕事が面白かった。10や15φ丸棒の金型、20本取りだ、複雑な金型、解体整備には、相当のコツが必要だった。が、私は、丸棒が詰まってしまって、生産続行が出来なくなった金型を夜勤中にばらしてしまって、その後、セットできなくなってしまって、そのままにしてしまい、次の月曜日、朝勤になった時に、上司から、「しょうがないな」くらいの事を言われるだけだった。何日か前の事になるので、怒りが、和らいでいるのでした。

半年後には、製品の立ち上げは、私の班からするようになった。生産途中で、NGになり、治せない時には、私の班から再スタートした。営業担当者に、新しい製品の引き合いがあった時には、私の上司達ではなく、私にできるかどうか聞きに来るようになった。見積もりの根拠となる金型費用や生産速度や歩留まりを答えた。典型的な例が、先日お亡くなりになった北川工業の前社長さんとの対面でした。6ナイロンのエッジング、グロメットでした。  
http://island.geocities.jp/enpla_indonesia/newpage0201.html

このころの、何でもやってみよう、出来るかできないか分からなくても、取りあえず、出来ますと言って、引き受けてしまう生き方、この年になっても、仕事に対する姿勢は変わっていない。
http://nanbuindonesia.web.fc2.com/page231.html
スマトラ島の最北端に近い町、バンダアチェ2004年、地震と津波で10万人以上が犠牲になった町、世界中からの支援を受けて、あっという間に、2年後には、震災の面影はほとんどなくなった。それに引き換え東日本の震災、3年過ぎた。未だに、問題が山積みで、復興の足取りは重くて遅い、原因は“日本”だからでしょうね。絆の精神は保ち続けてほしいものです。最近オープンしたホテル。
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チカランバラットインターチェンジ近くのカルフールの隣です。オープンしたばかりの、ホテル サンティカSantikaです。
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ジャバベカ2のチカランバルにあるマスターバッチ製造会社、本社はスマランにある。今日、緊急で注文したら、スマランからエアーで送られ、明日の昼前に届けてくれるという。本当だろうか、期待して待つことにする。


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