(^_-)-☆夢の途中22 2 [思い出]

 1880 三日続いた深刻な悩みが、幸いにも、先ほど夕方解消した。何とかなった。ホッ、である。

戻るなり、看護婦が食ってかかってきた。私が行方不明になってしまったので、捜しまくったり、会社に電話したり、大騒ぎになっていたらしい。とにかく、平謝りに謝るしかなかった、あなたみたいな人は始めてだ、全く、という具合だった。

月曜日の朝、医者が巡回してきた。昨日の事を報告されていなのか、期限が悪そうに「君、何故ここにいるの?」と、聞かれて、「とにかく泊まって行けと言われたから」いったら、「君、何でもないようだから、出て行きなさい」と言われて、間髪をいれずに退院をした。下着や洗面道具を入れた大きめの紙袋を小脇に抱え、会社まで500mくらい歩いて帰った。まだ、10時前だった。事務所の扉を開け、20人ほどの人たちがいる前で、「お騒がせしました」と頭を下げ、直ぐに、寮へ行き、寮母にもお礼を言い、そのまま、作業服に着替えて、仕事場の検査室に行って仕事を始めた。

その直後、事務部長から、通達が出された。原則として、残業は4時間以内しか認めないと。要するに一日の拘束時間12時間以上は、だめだということになった。私も無茶をしたと思うが、あまり反省はしていなかった。

検査室の次に押出成形部門にはいった。昼間の勤務だったが、忙しくて、毎週土曜日日曜日の夜勤12時間勤務をした。土曜日、昼間の勤務が終わって、寮に帰り、20時に出勤、日曜の朝8時に終了、日曜に20時出勤、月曜日の朝8時終了、月曜日の昼間は年次有給休暇を取って休み、火曜日から土曜日までは通常の日勤、二ヶ月間続けた。平日、日勤の残業を含めれば一週間に30時間以上のオーバータイムをした。一週一回年休を使って月曜は、休むわけだから、一遍に年休が無くなってしまった。それを知った会社の事務部長が、「年休より代休を優先する」という、新たな通達を出してきた。要するに休日出勤をしてその代わりに休む時には代休といって、給料が引かれる休みの方を使いなさい、ということにしたのです。私が予想外の無茶をするので、事務長も大変だったと思う。何かあったら、自分の責任になるかもしれないと思ったのでしょう。

とにかく、当時は、夜勤で連続運転をしない時でも、日曜日には出勤していた。連続運転の時は勿論誰かに昼間出てもらわなければならない、私一人ではなかった、というより、他の人に休日出勤をお願いしていたので、私が率先してでなければならないと思っていたからでした。本当は、私の上司が、やることだと思っていたが。

当時は、まだ、土曜日は休日になっていなかった。私のオーバータイム、もし、土曜日が休日になっていたなら、一月12×4で48時間+されていたことになる。
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MM2100へ日本へのエアーティケットを買いに行ってきた。行きも帰りも、交通状態は、閑散過ぎ。一時間半で用事を済ませて会社へ戻った。チカランバラットの出口も、閑散過ぎ、あたかも、天変地異の予感で動物が姿を消す現象のよう。
  

タグ:率先 使命 義務
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(^_-)-☆夢の途中22 1 [思い出]

 1879 大学をでて、入社して直ぐから、会社の各職場を一か月毎に、巡って、いた。射出成型、プレス成型、ガラス繊維入りペレット製造、そして、四か月後、四か所目、検査室にいた。押出成形部門のボビンスリーブという製品の不良返品が山になっているし、返品も半端じゃなかった。大学は化学だったが、品管の手法を使った卒論を書いた私としては、何とかしなければと、思ってしまった。三交替で24時間生産の現場で付きっきりで、不良の種類と原因の究明と対策、解決方法を見つけようと、生産につきあった。昼間、他の人に8時間任せ、私は16時間夜勤を中心にデータ取りをした。土日を含めて二週間の予定だった。

13日目が終わった土曜日、明け方、勤務を終えて寮(寮は敷地内に会って仕事場から100mくらいしか離れていなっかった)に戻ったと同時に、強烈な腹痛に見舞われた、どうにも我慢ができない。七転八倒、寮母も何事かと駆け付けてきてくれて、痛み止めを呑んだが、一向になおらない。会社の事務所(ここも100mくらいの距離)に知らせに行ってくれて、車で直ぐ近くの国立東静病院へ送ってくれた。ところが、病因まで分くらいの距離だが、車に乗ったころから痛みが和らいで、病院についた時には、痛みがどこかへ行ってしまっていた。痛くもかゆくもなくなっていた。大騒ぎをした手前、今さら帰るわけにもいかずに救急受付にはいった。

看護婦しかいない、専門の先生はいない、とにかく入院しなさいと言われ、そのまま、病室のベッドに寝かされた。看護婦に、どこが痛いかと聞かれ、痛かった場所を押さえて見せた。結局、「専門医が学会へ出かけてしまっていて、月曜日出勤だし、返してしまうわけにいかないから、泊って行って下さい」ということになった。そして、昼食、夕食、重湯を少ししか出してくれない、日曜の朝になって、車を持っていた先輩、友人が見舞いに来た、「そんなにお腹が空いているなら、今から、長岡へバーベキューを食いに行こう」となって、看護婦に外出すると言って、片道1時間ほどの中伊豆の温泉地、長岡の山の中の野外バーベユーまで行ってたらふく食べて戻ってきたのが夕方5時ごろだった。 
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北のゴルフ場から、途中、昨日もよったトコ バングナンに今日も寄って買い物をし、リッポチカラン方面に帰る途中、ジャバベカ1を左に見ながら通過、そのすぐ後、前が塞がれていてまっ直ぐ南に向かえなくなっていて、左に曲がって、ジャバベカ2に入る。そして、しばらく行ったところでUターンし、先ほど、左に曲がった場所まで戻って、リッポチカラン方面に向かう。かなりの遠回りだ。今日は日曜なので、空いていたが、普段は、大渋滞の連続で、こちらの方面には、出来るなら来たくない。
 
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(^_-)-☆夢の途中48 2 [思い出]

 1874 集中治療室で目が覚めた。痛い、お腹が痛い、強烈な痛み、我慢できない。痛み止めの注射を肩に、お尻に座薬を入れた。夜になった。隣の鼾が凄い、痛みは、酷いまま、眠れるわけがない、夜勤の看護婦に座薬を入れてくれと頼んだが、「太田さん、さっき入れたでしょ、堪え性がない人ね、我慢しなさいよ」と叱られた。結局、朝まで眠れなかった。鼾は相変わらず、朝出勤の看護婦に、痛く眠れなかったことと、鼾が煩いから、一般病棟に移してくれと頼んだ。座薬を入れてもらえることになった。「あら、太田さん、座薬が入っていなかったみたい、落ちていますよ、よく、一晩中我慢したわね、こんな人初めて、我慢強いのね」と感心されてしまった。何だよ、昨日の看護婦、とんでもないやつだ、と、思っているうちに痛みがなくなった。それと同時に隣の鼾がぷつっと止んだ。朝ごはんの時間らしい、扉の外をカートが通る音がする。深い眠りについた。夕方目が覚めた。妻や母親が私を見ていた。隣のおばあさんのベッドが空いていた。「移したの」と聞いたら、「今朝、なくなったのよ、手術をしようと開腹したが、手の施しようがなくて、何もしないで閉じたのよ、麻酔を沢山効かせて、眠って貰っていたの、太田さんには、迷惑だったでしょ」と、いうことだった。ドラマだね、こんな狭い空間で、こんな短時間に、色々、あるな、それを感じるのは、生きている証拠だなと。

一か月後に10kgやせた状態で退院した。その間、私に死んでもらっては困る人達が大勢見舞いに来てくれた。同行二人の人も来てくれた。牢名主ではないが、入院患者の代表者みたいな状態にもなっていた。よろず相談も引き受けていた。偶に、抜け出して、碁会所へも行っていた。見舞いに来た人で、行方不明の私に会えなかったほともいた。

禁煙をしていたが、帰りの車の中で運転をしながら、吸った。美味しかった。その翌日から、会社に出ていた。6月の初旬だった。お腹の皮膚が突っ張った時に痛みを感じる程度、他は、普通だった。

それから、約10日後、夜中に、急に下腹に強烈な痛みを感じた。我慢できない、運転して、病院へ向かった。緊急入院、顔なじみになった看護婦が、「やっぱり来たわね」という、そういえば、退院する時、看護婦から「また、会えるかもしれないね、きっと、戻ってくるよ」と、分けのわからない事を言われていた事を思い出した。聞くところによると、胃の手術は、小腸が邪魔になるので、掴んで、寄せるのだそうで、その、掴んだ場所の小腸の粘膜が剥がれ、本来、滑りやすくて、小腸同士がくっついてしまうことはないが、粘膜が剥がれると、くっ付いてしまい、その場所が、閉塞するのだそうだ。腸閉塞です。一週間、点滴だけで、なにも口にしなかった。X線チェックで、閉塞がなくなって、退院できた。
それから、また、一か月後、同じ事を繰り返した。腸閉塞の痛みは胃の手術の後より、痛かった。脂汗タラタラの痛みだった。それ以後、その病院へ行く事態には、なっていない。
76Kgあった体重が60Kg以下まで落ちた。体重に関しては、その後半年で65Kgになって、それ以後、現在まで、63Kg±2kgで安定している。

8月に二つの結婚式の媒酌人を務めた。結納の時の写真と結婚式の時の写真では、使用前、使用後のような風貌だった。

超早期発見、早期手術、そして、ほとんど胃を取ってしまったので、胃癌の心配はない、だから、インドネシアで今も普通に(パニック障害を除いて)生活出来ている。人生、色々あるうちの一コマでした。

ついでだから、書いておくが、今になっても、胃を切ったという話をすると、「胃はまた大きくなるんでしょ」と、ほとんど人はいう。胃を切った、私の父親も、自分で、「切った直後より、一度に食べやれる量が増えていったから、胃は大きくなっている」と言っていた。事実は、『胃が再生することはあり得ません』ただし、切った直後より次第にキャパシティは大きくなります。一度に食べることができる量は増えます。何故でしょうか、十二指腸がラッパのように膨らむからです。カメラで見ると、蛇腹のラッパが見えます。当たり前ですが、胃の消化液は増えません、動きもありません。胃で消化する栄養素は未消化のまま、吸収されず、通過します。だから、食べる量が増えても太る確率は少ないのです。いくら食べても太らない。異常な肥満の人は、胃を切って取ることが、究極のダイエット方法です。そして、胃がんに掛かるし心配もなくなります。良いことずくめです。切った胃は再生しません。トカゲの尻尾ではありません。
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またインドネシアに登場したおちゃ、日本茶ではない、しかし、日本のお茶だと宣伝している。
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伊豆の狩野川沿いの早咲きの河津桜が満開だとか。間もなく、桜の季節、日本にいる予定だ。手ぐすね引いて私を待っている方と桜の下でゴルフ、いいでしょう。
 

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(^_-)-☆雪の話 [思い出]

 1859 日本から三つ四つの行きの情報がメールで入っている。凄い積もり方ですね。100年以上前、記録がある時以来最大の積雪量の地方がいくつもあるとか、甲府の雪は1m以上だったとか。甲府に住んでいた学生時代、寒かった、マイナス15℃というのがあって、静岡出身の私は、三畳一間の下宿で電気コンロを抱いていた覚えはあるが、雪はほとんど降らなかった。だから、池や貯水池の氷の表面は透き通って、滑るとコリコリ音がした。雪が積もればそういうわけにはいかない。富士五湖の山中湖や河口湖も全面結氷して透き通った氷の上をワカサギ釣りの人の合間を縫いながら一周したものでした。14日は、本当に思いがけない豪雪でしたね。もう、観念して、成り行きに任せるしかないですね、じたばたしったって、仕方が無い。ということのようですね。

この前もちょっと触れましたが、静岡平野はやはり雨だったようです。そして、冷え込みが弱かったようで、当たり前の状況だったようです。静岡と言っても静岡平野だけです。静岡県東部や伊豆地方、そして、静岡県西部は狭い平野ですが雪は毎年、数回振るようです。静岡市でも北の山岳地は十分雪が降ります。富士山周辺、裾野、御殿場、小山、そして、富士宮なども何回か雪が降るし、交通にも影響がでます。
インドネシアでも、県外の人達はあまり、まともに聞いてくれませんが、こんなときでも静岡は雨で、雪は年に一回降るかどうかで、それも、積もるほどではない。子供の頃、一度だけ、アスファルトや歩道のコンクリートにうっすら、溶けないで残っている雪をかき集めて、お盆の上に雪うさぎを使った、ナンテンの実を目にし、笹を耳にした。全長は15cmくらいだった。そんな話をしても、まともに聞いてくれない。また、これも、以前書いたが、“カザハナ”風の華(花)と書きます。年に一二度、晴れた日、ちょっと風がある日、白い雪の様なものが舞ってくる。北の山岳地帯に降っている雪が舞ってくる、或いは、山に一旦積もった雪が風で巻き上げられテ飛ばされてくるなどと教えられていた。大体そんなものでしょう。学校のグランドにいる時に舞えば、全員が大騒ぎになる。手のひらを上にして、校庭を走りまわって、はしゃぐのでした。それほど、うれしいのです。学校にいて雪がパラついたりすれば、受業は中止です。勉強どころでは無くなる。全員が雪降り状況の観察の校庭に出てしまう。先生が先頭になって興奮する。「これが、雪だよ」という。

そんな話も、聞きながされますが、これから、余談です。そのインドネシアではどうでしょうか、ヒョウが降る、あるいは降ったという話は聞きます。日本ではセ雪が降ってもスバトゥが降ったことが無いでしょう、と、聞いてくるインドネシア人もいるくらいだ。富士山より高い山がいくつかあるが、雪が頂きにでも降ったという話は聞かない。ただし、パプアの最高峰、オセアニアの最高峰プンチャック ジャヤという山、富士山より1000以上高いが、雪がある写真を見たことが無い。南緯二三度で、ほとんど赤道直下です。
“南の島に雪が降る“という、加東大介さんの映画が昔、ありました。舞台はパウアの中央山岳部、マヌクアリという僻地、ジャングルに残された日本兵の話です。劇の中で、紙を切って、雪として降らせたので、そのタイトルがつけられたのです。本物の雪は降りません、マヌクアリに降ったという記録もないそうです。因みにマヌクアリへは政府の許可を貰わないと航空券を手に入れることができません。
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注文した装置の一部、チビトゥン。
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MM2100の反対側チビトゥンにゲート、ジャカルタ方面は幾らか払って入るが、一番左のチカンペック方面は、払ったり、チケットを取ったりしないで、入る。そして、チカランバラットで払うことになる。


タグ: 閉鎖 大変
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(^_-)-☆大学生の時 [思い出]

 1845 高校時代については以前書いたが、大学生活についてです。定量分析や定性分析などをする機会が多かったので、穴だらけになった汚い白衣?をはおって学内を闊歩していた学生時代、先日、その場所に何十年振りかに行ってみたことは書いたが、本当は、本分なる勉強をほとんどしていなかった。ほとんど、遊んでいた。クラブは卓球部、一年の最初からレギュラーだったので、真面目に練習もしなかった。高校時代、やっていたどころか、運動もしていなかった人達が、大学へ入ったら、それほど、きつそうではない卓球部へでも入ってみるかとか、教育学部(当時は学芸学部といっていた)の人は、教員になった時に、何か運動部にはいっていた方が採用試験で有利などの感覚で大勢新入部員がいたが、そういう人を相手にする気が無かったので、練習はいい加減だった。上級生も似たりよったりで、私より上か同等の人は二人しかいなった。
で、同じ体育館でバドミントン部も練習していた。中に甲府二高(当時は女学校)バドミントン部にいた女子が二人新入部員として入って来ていた。二人とも上手で、いきなりレギュラーになっていた。可愛くて恰好もよかったので、直ぐに、話しかけて、練習はそっちのけで話をして、ちょっと、時になっていたり、卓球部の先輩、四年四年生に、私としてはかなり美人と思う人がいた。女性に中では一番上手で、他の女性部員では相手として不足だったのでしょう。私がいると必ず彼女から相手として指名された。髪を伸ばし始めたが、まだ坊主頭の私を可愛いと思ったのでしょうか、また、彼女が望む強さら、方向に打ち返すことができた私は練習相手として適当だったのでしょう。私はちょっと面倒だなという顔をしながら、結構、満足していた、彼女が部から離れるまで半年ほど続いた。後で知ったが、彼女には卒業した卓球部の先輩と既に婚約していたのでした。その先輩、結構、ハンサムで、休日や合宿などに現れて、何かと、指導をしていたが、地元にいる先輩は多いと思うが、その人以外は、だれも来ない。面倒見のいい人だなと思っていたが、彼女目当てだったのでした。

卓球ばかりでは付き合いが狭いと思って、書道部にもはいった。子供のころから書道は得意だったので、書道部にはいっても、あまり練習もせず、逆に教育学部の女性部員を指導していることが多かった。五十人ほど部員がいたが、工学部からは私ともう一人いただけだった。それでも、卓球部のキャプテンをしていたので、書道部では、部長の補佐をする機会が多かった。“学書展“といって、山梨県では相当権威のある、小中学生一般の人も対象に、書道展を山梨大学書道部が主催してやっていた。相当歴史もある展覧会です。各学校から出された書き初めを県の書道家の権威の方々にしんしてもらって、席書大会に来てもらう人を決めてもらい、席書大会会場は大学の付属小学校の教室を使った。300人くらいの児童生徒が山梨県中から集まった。学校対抗という賞もあったので、引率の先生も大変、燃えていたし、山梨大学の出身者が多かったこともあって、先生同士の争いにもなっていたようだった。賞に入った人たちの作品やや審査員の意見を載せるための小雑誌の広告費を集めて回ることもした。各、後援団体、例えば、県教育事務所や商工会議所やらへ出かけて行って、私が手書きした賞状に県知事とか教育長の大きな印鑑だけ押してもらった。

夏は合宿やら遠征で忙しく、冬は武田神社の右隣のある灌漑用水、竜が池でアイススケートを毎朝講義が始まる前に楽しんでいたし、長野ヘスキーをしに行っていた。愛宕山の展望台まで一週間に3回ほどは登っていた。ブドウの季節にはブドウ棚になっているブドウを手が届けば、とっと頂いて、食べながら行った。道端の垣根の外に、はみ出している柿やイチジクや枇杷やザクロなども大いに腹の足しにさせてもらった。合宿の時の牛カエル(食用ガエル)私は始めてその泣き声を聞いた。捕まえ食べてしまった、美味しかった。その後、泣き声を聞くたびに出動して食べていた。
家庭教師もいくつかやっていたし、奨学金も貰っていたし、頼めば親からも資金援助をしてもらえると思っていたし、自立の始まりでもあった。この時の生活環境が、今のインドネシアの環境とよく似ていると思っているので、この時も今も何の不自由も感じていなかったし、感じていない。勿論、友人にも恵まれた。この中で妻とも知り合った。思い出は、まだまだ、山ほどある、全てが、何のストレスも感じない自由で貴重は時間でした。人間関係などと言ったことは全く頭になかった。どうしてもやらなければならないなどということもなかった。自分がやれる事、やりたい事だけをやって過ごした四年間でした。そのままサラリーマンになってしまったので、務まるわけが無かった。
もう、50年も前の事です。当時の事は毎日日記を書いていたので大学ノートで5冊、今も残っている。
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毎年の凸凹が今年も酷いことになっていて、たったの数百Mのこの場所通過するのに30分以上かかっている。やっとロードローラーが到着した、だからと言って、この強い雨の連続、舗装を修復するのか容易ではない。いつ直し始めるのでしょうか。
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この通り、どこでしょうか、分かる人は相当、リッポチカランの裏道を知っている人です。
  

タグ:無菌 自由 自立
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(^_-)-☆最後かも [思い出]

 1813 私としてはどうでもいいことだが、取りあえず、習慣として、浅間神社へ初詣に行くことになっているので、みんなで出かけた。当然、ここには、静岡市をはじめ、相当広範囲からお参りに大勢の人が来る。車でいって、境内の駐車場に止めようとすると、最後尾についてから1時間以上行列の中にいなければならないことは分かっているので、私たちは、目的地から1kmくらい離れているが、元静大の跡地の公園まで行って駐車する。ここは、旧制静岡高等学校。戦後、静岡大学文理、教育学部があったところで、その後、日本平(にほんだいら)の山麓に移転したので、今は、城北公園?になっている。
そこから、歩いた地走ったりして浅間さんの石鳥居に向かう、途中、冨春院というお寺がある。中学一年の時の担任が住職をしていた。鈴木宗元先生だったと思う。地図の事を地理付図と言っていたことが印象的だったが、奥さんが他界されたときに、普通の日だったが、クラス代表で私はこのお寺に来てお悔やみを述べたことがあった。その時、初めて、坊さんが10人以上見えてシンバルや太鼓で賑やかに御経を唱えている場面に会った事を思い出す。
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写真は、賤機山(しずはたやま)の百段を上って、4か所目の展望台広場からのパノラマです。遠くには、左に富士山、清水の町、日本平、駿河湾が見える。その手前は、静岡市街北部、谷津山、静岡市街中心部。足元には、城北高校、従北公園、静岡高校、駿府城跡などが見える。素晴らしい展望でしょ。中学高校時代は、おそらく毎年50回以上は、この景色を見ていた、実際には、走っていた。その度に100段は5往復はしていた。だから、浅間神社へ来た時には、必ず山へ登るし、駆け足で登るってしまう。今日も、ところどころで休んだが、自然に駆け足になってしまった。百段を下りる時もかけ足だ。孫たちと競争だった。
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境内に大きな池が有って、その真ん中のくびれたところに赤い橋がある、かがみばし、という。走ってきて、この橋の上で、透明の水で泳ぐ鯉や噴水の周りの岩で甲羅干しをしている亀をなんとなく眺めながら、青春を語った墓所です。そこで、今の家族の全員の影が映っている水面です。
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ということで、初詣は理由であって、目的ではない、目的は、百段を上がって、出来るだけ上まで行くことです。それも、出来るだけ駆け足で。そして、まだできるということを確認するためでした。今回が最後になるかもしれない、と、思いながら。もっとも、パンガンダランまで出かけて行って、ジャングルの中でラフレシアを捜しまわることができていれば、こんなところは、全然、問題なし。
と、もうひとつ、懐かしの地に来て、若かりし日々を思うことです。この山の上の西側と東側に私の楽しいまたちょっと物足りない物語が数え切れないほど、次々と浮かんでくるほど詰まっているからだ。
 

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(^_-)-☆思い出の続き [思い出]

 1762 中学三年の時の同級生で、静岡市で、今では、一番有名になっているフグ料理屋を起こしたやつについては以前書いた、彼も印象深い人だった。
昨日の話の中で、隣のクラス担任の国語の先生、目が大きくて、真面目そう、彼のクラスの生徒は、彼好みで、大人しかったので、私のクラスとは対照的、何故、そんなテーマを設けたのか知らないが、“運動と勉強は両立できるか”ということで、討論をしようということになった。例の四人が前に出て討論することになった、私と一人の女性が、できない側、野球野郎ともう一人の女性が、できる側に指名された。私は運動部に入っている事を知らなかったらしい。その討論、直ぐに、無意味だと思った。そんなことは、客観的にどう思うかと、思われた人の習慣が一致することは無いからだ。野球野郎、思った通り、いきなり、「お前、両立してるじゃないか」、と言ってきた。それを言われた私、何も言い返せない。両立していない、と言ったら、そんなこと無いだろうと言われるし、運動も勉強もできないやつが多いのだから、そういう人から見れば、両立している。恵まれている。
逆に野球野郎にむかって、「お前、両立していないだろ」、とは言えない。彼も、多くの人から見れば両立しているのだから。皆さんから見れば。両立している二人を討論者に選んだのは先生のミス、そして、二人とも、実際には両立できていないと思っている。どちらかに絞れば、どちらかは、もっとできるようになると思っていたからだ。それぞれの側の女性も運動ではないが、文化部の部活と両立していると思われている人たちなんので、討論にならなかった。先生曰く、お前たちは討論がうまくないな、でした。「何言ってるの、この先生、何もわかっていない、こんなことで私たちに討論させるなよ」という心境だった。

後日談がある。当時の先生は、例外はあったがほとんど、まだ、20歳代の若い人が多かった。私の担任は24歳だった。平均で10歳前後の差しか無かった。私が40歳の頃、小中学校の校長になっている人が多かった。
私は、家の近くの公民館で囲碁同好会に参加していた、その時の会の顧問をしていた方が、同じ区に住んでいて、中学の校長をしていた。その人の会話の中で、私の妻が小学校の教師をしているという流れになった。奥さんの学校の校長先生も囲碁が好きだよ、教員仲間の囲碁同好会に入っていて、いろいろな大会に教師仲間として参加している、一度、あなたも、公民館として、そういう大会に出てみませんか、ということになった。
早速、都市対抗というか、会社対抗というか、県下から100団体が集まるマンモス団体戦に参加した。プロの棋士も何人か、招待されていて、早く負けてしまったチームの人たちと多面打ちをしていた。教師組も何組か参加していた。その中に、なんと、中学三年の時の隣の組の担任だった先生がいた。市内の有名中学の校長をしているという。「あの酷いクラスの君か、覚えているよ、本当に、どうしようもなかったからな、三年一組の生徒の配分を間違えたと、当時、そういう話なっていた」、そうおっしゃる。その先生、三年二組だった。その後、校長が多かったが、先生の囲碁の会に先生の旦那という変な名目で、インドネシアに来るまで、参加させてもらっていた。   

40歳前からクラス会(同級会)を何回か開いていた。45過ぎから、学年会(対象は11クラス、約600人と担任11人)を5年おきに3回、行った。隣のクラスの先生も当然、出席していた。他のクラスは同級会を開いていないらしく、他のクラスの同級生や先生方からは大いに喜ばれた。と、思っている。インドネシアへ技術指導に行くと決まった時に、先生囲碁同好会でも送別囲碁大会を催してもらった。私がインドネシアに来てしまっている今、同級会も学年会も、中断していると思う。いずれも、案内状が届いていない。

中学では無く、高校、大学の同窓会やクラス会は流石である。音頭取りが山ほどいる、地元の有名人が大勢いる、だから、ひっきりなしに案内状が届いている。寄付金の請求書もである。
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ジャカルタ、バスウェーを走っていた、赤ナンバーが捕まった。警察関係の車だった。同僚でも見逃しません、ということらしい。
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OK品です。隙間が有りません。
  
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(^_-)-☆たぬきこ田貫湖 [思い出]

 1688 小田急西富士GCでラウンド、まったく始めてのコースでした。印象は、チカンペックに似ている、でした。何が似ているかというと、登りのコースが多いこと、カートを、勿論、使うが、私は、ほとんどを歩くことにしているので、疲れる。ただし、コースの手入れは、雲泥の差、インドネシアの今まで経験したコースのどこよりも、上だと思った。流石、日本のコースだと思う。朝霧高原、本栖湖に向かう道の途中、案外近い場所だった。開始時間を間違えて、早めに家を出た。ティーオフの時間間まで、二時間近くあることが途中で分かったので、その時間を使って、田貫湖(タヌキコ)へ行ってみた。
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 多分、60年ぶり。小学校の時にキャンプをしに来た時以来だ。その頃のことは、ほとんど覚えていないし、覚えていたとしても、今の様子とは状態が違うと思うので、どこでどうだったということは言えない。懐かしいと思いは無かった。しかし、キャンプをした場所は、現在、いくつかのテントがはられている場所辺りに違いないと思う。キャンプができる場所は、その辺りしかないからだ。
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“ダブルダイヤモンド富士”の撮影場所としても知る人ぞ知る場所でもある。私はそれの撮影目的で行ったわけではないので、なるほど、ここなら、太陽と富士山の頂上を結ぶ延長線上に立てば、見ることができるはずだと思う。ただし、その場所を捜すのは難しそうだ。時期に依って変わるし、そういう場所で、行きやすい場所なら、大勢に人が押し掛けて、その人たちが邪魔になって、純粋なダブルダイヤモンド富士を納めることは難しいと思う。
これは、ダブルダイヤモンド富士ではない。ただし、ダブル二重笠雲富士ですね。これも、ちょっと希少風景だと思いう。

ともあれ、夏場、下界が猛暑であっても、ここは、涼しいし、静かな、落ち着いた場所であり、日常の生活から離れ、リラックスするなら、最適な場所だと思う。

また、このあたりの水は、富士山周辺の他の場所の伏流水と同じように、あくまでも澄み切っていて、一定温度の冷たさで、それを使った作物の栽培も盛んで、そのひとつにワサビがあった。インドネシアのディエン高原のワサビの栽培風景とは全く違うので、面白いと思う。
  

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(^_-)-☆四年前 [思い出]

 1664 やっと四日が過ぎた。ゴルフ、食事の後、何をしようか。やることが無い、しかし、今日は、もうどうしても洗濯をしなければならなかった。明日のゴルフで着るものが無い。そして、明日着る服だけアイロンがけをした。他のインドネシア残留組の人は、どうしているのでしょうか、お手伝いさんを普段使っている人も、この期間はお手伝いさんもほとんどムディックでいなくなっていると思う。

規則的、健全な生活をしているし、仕事もしていない、情報もテレビのニュース番組からだけなので、渋滞や交通事故や各都市の話題しかない。交通事故の死者三日からの平均で一日60人だとか。どこでどう自己なのかは知らないが、多くは、バスとバイクの事故です。毎年のことで、ま、このくらいの犠牲者は、織り込み済みなのでしょう。大した話題にもなっていない。

http://island.geocities.jp/enpla_indonesia/page0408.html
http://island.geocities.jp/enpla_indonesia/pageo407.html
http://island.geocities.jp/enpla_indonesia/page0406.html
2009年、レバラン休暇は、9月後半でした。当時、一緒に住んでいたマリアさんを、混む前に、空の便で、一足先にブリタール(東ジャワ)に帰し、私は一人で旅にでた。丁度、ムディックの真っただ中、それより以前、ジャカルタのタクシードライバーの運転でブリタールの近くまで、ムディックに同行したことがあったので、様子は知っていた。その時よりも、はるかの渋滞はものすごかった。それでも、行きは、問題が無かった、順調だった。できたばかりのスラマド橋を渡ってみたり、シドアルジョの泥海を見たり、パスルアンの工業団地入口の前を通って、バニュワンギへ、フェリーでバリへ、バリは、多分3時間くらいで通り過ぎて、また、フェリーで、ロンボク島に渡った。マタラムを通って、島の東側に移動し、そこが目的地というわけではなかったが、ロンボクの北半分を一周しようと思っていたが、リンジャニ山の麓を通った時に、山へ登ってみないかと、その土地で道を訪ねた時に、言われて、登ってみることにした。かなり無茶だったと思う。

思いがけない、色々なことが有って、よく、計画通りの日程で帰還できたなと思う。他の人で、こんなことをしてみようと思う人はいないでしょう。
それに比べれば、毎日5時間程度のゴルフは、平穏、気楽、普遍である。緊張感が全くなしだ。それはそれで良いのだが。
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パサラヤブロックMのガラ空きとブロックMプラザの賑わい。
タグ:平穏 気楽
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(^_-)-☆寂しい話 [思い出]

 1603 昔々、私が高校三年の頃、所得倍増論をだみ声でぶち上げた首相がいた。10年で国民の所得を倍以上にするというのだ。その時からというより、その数年前から日本の景気は、放っておいても、良くなっていった。そのあと、私が大学に入ったが、当時、国立大学の工学部へ入りさえすれば、なにも勉強しなくても、就職には困らない、引っ張りだこだと言われていた。事実、先輩連中は、大企業、一流の上場企業に、就職していった。そういう先輩から、就職してからの情報が入ってくる、アメリカやイギリスへ出張で行ったとか、ボーナスで車を買ったとか、景気に言話ばかりだった。ところが、私に一年先輩の就職状況に陰りが見え始めていた。東京オリンピックが終った直後から、極端な不況になってしまったらしかった。わたしが三年の終わりころには。求人がばったりとだえてしまった。四年になってから、大企業は求人ゼロ、中小企業からは、今がチャンスとばかり、求人が舞い込んで来ていた。その頃の就職活動は、ほとんど、教授、助教授などの先生方が、何社かのコネを持っていて、持ちつ持たれつの間柄だったので、紹介してくれる会社の中から選ぶというやり方だった、特に就職活動はしないのが普通だったが、私の時には、その対象が、中小企業になってしまった。

就職先は先生の紹介だった、東レ、極東貿易、臼井国際が出資した創業二年目の会社だった。静岡の清水町柿田だったので、遠いが同じ静岡だから、いいかと思ってお世話になることに決めた。大卒新卒の第一号だった。

就職二年後、労働組合(組合員は100人弱)の副組合長、三年目から、組合長を務めた。副の時から、団体交渉の主役は私だった。初任給は2万4千円、国立大学工学部卒の標準的な金額だった。高卒で1万5千円くらいだったと思う。

就職当時の不景気は、二年ほどで回復方向に向かった、それからは、何とか景気が次々と繰り返された。所得倍増論から五,六年後である。会社の売上も毎年30~50%増えていった。団体交渉は、言いたい放題、労働協約の改定では、10項目以上要求した、ベースアップも30%以上を要求した。二年目の月給は3万でした。三年目の賃上げ交渉では、何と、平均8400円で妥結した。私の給料は4万円になった。四年目には5万円以上になっていて、倍増どころか、それを上回った。当時1千ドル(36万円)カーと言われた、パブリカを月賦で買った。

 毎週土日12時間の休日出勤、会社の中にあった寮に住んでいたので、四、五年は、会社とべったり、当時、土曜は休みではなかったが、土曜日の夜8時から日曜の朝8時、日曜の夜8時から月曜朝8時まで休日出勤、月曜日は年休を取るか、そのまま、うつらうつらしながら仕事をした。だから、月給の倍ほどの給料をもらっていた。五年目頃、27歳の頃には、残業、休日出勤を含めて10万円以上になっていた。

 7年過ぎに会社を辞めたが、自分で開業する準備をする期間、1年半は、ある会社の12時間、夜勤専門を務めた。結婚していたが、月給は20万円だった。
 30歳で会社の経営者になったが、1年も過ぎないうちに月商200万円を超えて、利益は100万円を超えるようになっていた。もっとも、それらのほとんど、設備増に使った。
 どうですか、当時は、脱サラという流行語が有ったくらいで、大体、何をやっても儲かる時代になっていた。

 アベノミクス?ですって、10年後には、150万円所得増だって?それに対する具体策が無いって?大変ですね、1年で15万円でしょ、年金支給が70歳からという、案が浮上しようとする世の中、年15万円増は出来ないでしょう?30年40年前と比べると、寂しい話ですね。

 機関投資家が円売りとドル買い、そして、株を買って株価を上げた。約半年後、一般投資家が、手を出し始めた。高値で買った一般投資家は、機関投資家の利食い売りによって、下がってしまった株を抱え込まされてしまった。輸出主体の大企業と機関投資家が美味しいところを待ってゆくのがアベノミクスでしょう。円高、株安に急反転、時代が違う、流れが違う、変化するのは20年後でしょう。
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 家の前、朝と夜、風船売りが毎朝来る、向かい側にトカン オジュック(バイクタクシー)のたまり場がある。
  

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